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42.血の街

 暗い部屋に寝転がったままのキリウ少年の耳元で、ニッチでもマイナーでもないポップな音楽をラジオがささやいている。意識を失っている間に無法者どもの電波ジャックは終わっていた。明日か明後日にまた彼らの手に入る電波で会えるまで、それは続く。

 夜が夜なら朝は真夜中に、降り注ぐ豚の貯金箱が、向かいの席のクレジットカードがゆでてくれたピーナッツ。

 謎の言霊だ。どうもラジオの電源を切ることすら億劫に思え、キリウは目を閉じたままでいた。開けっ放しの窓から部屋の中に吹き込む夜風は涼やかで、そしてそれはいつものように、かすかな奇声が混じっている。理想的な日陰者の街の夜である。

 ところでつい今しがた玄関の向こうあたりで聴こえた、有無を言わさぬ忙しないノック音はなんだろう。

「ごめんね入るよ」

 考える間もなくドアをピッキングして入ってきたらしき声は、ユコのものだった。ユコはきちんと謝って偉いな、そしてピッキングは学校では教えてくれない技能の一つだが、やはり教えておいてよかったなとキリウは思った。鍵が開けられないことは、最悪命に関わる。また、鍵のかかった扉は壊さなくても開けられるのだということも、知っておいた方がよい事実だ。

 そこまで脳に血を巡らせた時、彼は、昨夜のラジオを結局聞き逃してしまったことに気付いた。その途端、頭が再び夢見心地の世界に戻ってゆくことを感じた。電池が切れかけている時計の秒針がツートンツートン何かを言う。

「あ、ごめん。寝てた?」

 そんなものは、上り込んできたユコの足音と点灯した照明の光とで蹴散らされた。ずかずかとそわそわの中間くらいの、強引かつ遠慮がちな振る舞いでもって現れた彼女は、死体みたいに転がってるキリウを見て申し訳なさそうに言った。なんとややこしい生物だ。だが嫌いじゃない、当の家主はそんな顔をした。

 それはどうでもいいが、ユコが手を引いてここまで連れてきたらしき少女を見て、キリウはにわかに目を覚ました。

「ああ……ひどいな。ユコがやったの?」

 ユコと同じ制服を着た、ひどく小柄な女子生徒だ。しかしそいつは上から下まで傷と痣と靴跡にまみれており、ふらふらした足元はゾンビか何かのようだった。

「違うよ! うちの学年のチンピラども」

 なぜか顔を赤らめて肩をすくめるユコの後ろで、そいつは落ち着きなくきょろきょろしていた。一緒にいるのがユコだと、どう見ても彼女に蹴られたり殴られたり絞められたりしたみたいだが、それはしょうがない。そいつは長い前髪から覗く丸い目をぱちくりさせて、ユコに掴まれたままの自分の手首をちらちら見ていた。

「いきなりごめんね、近かったから来ちゃった。追っかけられてるから、しばらくこの子置いといてくれない?」

「いいよ」

「ありがとう」

 そしてユコはぶつぶつ何かを口走って、部屋のスミに立てかけてあった高枝切りバサミを一本手に取ると、走ってキリウの部屋を出て行った。それはマルチ商法をやっている知人から押し付けられた在庫処分品だったので、キリウは気にしなかった。あと七セットはあるが、この調子で全て持って行ってくれるに違いない。

 その時、キリウはふと気付いた。

「これいりますか?」

 彼が口説き文句どころかセールストークもろくに思いつかないまま、立ちつくしている少女に高枝切りバサミをすすめたところ、無視された。立ちっぱなしもなんだからとそいつを床(化学合成たたみ)に座らせ、もう一度すすめたが、無視された。あーヤダ近頃の子は奢らなきゃ口きいてすらくれないッ。それから、そういえばお茶を淹れてなかったから淹れてこようと思った。

 しかし少女の切れた唇になんとなく目が行ったところで、彼は固まった。そいつがかすかに笑っていることが判明したからだ。笑いには良い笑いと悪い笑いとどうでもいい笑いがあり、悪い笑いには普通の悪い笑いと気持ち悪い笑いがあってややこしい。そしてこれは若干気持ち悪い笑いだ。

 どうやら、そいつは赤くなった左手首をぼんやり眺めて、にこにこ笑っているようだった。ユコに掴まれていたところだ。

 長い逡巡ののち、キリウは右半身が緑色になった。

 マグカップと湯呑にお茶を淹れて戻ってきた。

「勘違いするなよ」

 そう声をかけながら、キリウはついでに持ってきた消毒薬を少女の頭に乗せた。そしてマグカップと湯呑のどちらを渡すか迷った。するとどうやら声が届いたらしく、彼女は夢から覚めたように顔を上げる。それだけの仕草も一から十まで緩慢な印象を与える少女である。確かにこの街の学校でそんな風だと、これくらい暴行を受けることもあるかもしれない。

 よく観察すると、彼女の手足に染みついた無数の痣は、昨日今日でできたものではないようだった。かわいそうだと思ったので、キリウはマグカップと湯呑を両方とも少女に渡した。彼女はしとやかというよりは遅鈍にそれを受け取った。

「ユコはね、誰のためとか何のためとかあんま考えてなくて、人ブン殴りたいだけなの」

 ようやくラジオの電源を切って、そんなことを言いながら隣に座ってきたキリウを、彼女はじっと見た。そしてつぶやく。

「しってる」

 人語を喋れたのか、とキリウは驚いたが、それより自分の右手が緑色になっていることに気付いて悲鳴を上げた。

「苔生えた!」

 それは間違っていて、本当は皮膚からアドレナリンが粉をふいてるだけだった。見ると少女が口をつけているマグカップにも緑の粉が付着していたが、彼女はそれに気付かずに飲んでしまったらしい。これを期に少しは生き急いでくれればよい。

 一方彼女は相変わらずぽやんとした様子で微笑んでいた。

 はい深呼吸!

「……ユコ、あんまりケガしてなきゃいいな」

 そうこぼしながら再び床に転がったキリウの横で、傷だらけの少女はかろうじて分かる程度に頷いた。頷いたせいで頭の上に乗っていた消毒薬が落ちた。

 ざわめくような風が吹き、窓の外から運ばれてくる悪意と奇声は、ただただとめどない。