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197.悪魔

 真っ青な港にいる。風はとうに止み、波ひとつ無いのに、天然着色料で毒々しい青に染められたそれを海だと思うのはなぜだろう。

 モノグロの少女、I.D.は機材をいじりながらニヤニヤしていた。灰白色の口角をへにょりと持ち上げて、大きな一つ目を三日月形に歪めて、いつもよりニヤニヤしていた。

 ところでモノグロの外見は個体差が大きい。内部構造が同じであるにも関わらず、口器は哺乳類の形に近いものから虫の『あご』様のものまでをグラデーション状に形成する。一般には前者寄りの個体が多数派で、他の生き物とコミュニケーションをとりやすいと言われていた。見ての通りI.D.もそうだ。彼女がしれっと人間社会に適応できたのは、手足の存在よりもむしろ、口の構造からして人語を操るに支障が無かったことが大きかったのかもしれない。仮にそうでなかったとしてもI.D.は自分で口周りを切開して、そのように整形しただろうが。

 ともかくI.D.はニヤニヤしていた。それはすぐ四~五メートル向こうから響く、ふたりの悪魔の和やかな語らいに、無い耳を傾けているから。

「#%@※(そんでオレが、いますかー?って聞くと、いませーん、って言うのよ。ああいないのか、って思ってオレは帰るんだけどね。帰った後で気づくの。いたじゃねーかって)」

「あひゃひゃひゃひゃ」

 寂れきった埠頭で、自称悪魔だかなんだか――骨っぽい生き物の隣に座ったキリウ少年が、I.D.が聞いたこともないような声で笑っていた。彼はあんなに大きい声でみっともなく笑える子だったのかと、I.D.は切れた配線を繋ぎ直しながら、和やかな気持ちになる。

 懐かしかったのだ。キリウのことじゃない。I.D.は他人の話し声を聞きながら自分の仕事をするのが好きだった。これはI.D.が古い友人たちとラジオ放送をしていた頃からの趣味だった。I.D.は彼らの青空スタジオをモニタリングしながら、好きな目薬をさして好きな仕事に勤しんでいたものだ。

 仕事。I.D.はそれをしなければ生きていけない作業、または特に大した意味も無く行っている作業をそう呼んでいる。

「#%@※(だから今度は絶対にいると思ってさあ。でも一応また、いますかー?って聞くの。いきなり開けて撃ち殺されたら嫌だからっ。そしたらやっぱり、いませーんって言うんだよね。嘘つけアホって)」

「ひひっヒヒひやーあははっ、あはははは、ふいひひ」

 I.D.の澄み切った瞳には、少し遠くから見るキリウの背中が愛しかった。彼は離れたところから見るくらいがちょうどいいのだ。実のところI.D.は、メイヘムの車内でキリウとふたりっきりでいると気分が悪くなるのだ。本当はメイヘムの中じゃなくても同じで、I.D.はキリウの隣にいると胸が苦しくて眼が乾いて頭痛がして、とても素面ではいられない。おかげでキリウと出会ってから、I.D.の目薬の消費量は格段に増えている。

 近頃のI.D.は、それを恋の病と呼ぶことについて一つの発見をした。あれはキリウと遊んでる最中に迷い込んだ、ペンタヘンタグラの使者の通勤経路でのことだった。監視ハマグリの目を掻い潜った先で、己の無知を認めるセミナーのチラシを拾ったI.D.は、その裏面に書いてあった言葉を口に出して読んだ。「愛のためにオレは死んだ」。瞬間、I.D.は自分の勘違いに気づいた。恋ではない。愛の病であると。

 何せキリウという少年は恋人にするにはネジが飛びすぎてるし、たまに信じられないほど馬鹿で考え無しなところがある。I.D.は長い道すがらキリウから聞いた、彼と彼の周りの人たちにまつわる思い出の顛末に合点がいった気がした。それならI.D.がキリウにかまってしまうのは、この危険人物の行く末が気になるからに違いない。

 キリウの考える遊びは、I.D.にはよく解らなかった。解らないことはなかったが、解るほどでもなかった。非合法なリップクリーム工場に侵入してトウガラシの粉をぶちまけたり、笛を吹いて集めたドブネズミの群れを率いて夢の国を作ったり。キリウは与えもするし、奪いもする。今日のだって、一か月前に突然「海に行きたい」とキリウが言い出して、わざわざ遠く離れたこの海までやってきたけれど、だから何だと言うのだ。楽しそうで何よりだ。I.D.としては退屈しないので、どうでもいいことだった。

「#%@※(それが直接の原因っつーワケじゃないけど、アレだね。そのへんで何かこう、足洗ったね。自分の限界に気づいたってゆーか。潮時だったってゆーか)」

「わかるっ、わかるー。イヒヒヒッヒヒヒ」

 とはいえだよ。I.D.は入り始めた空からのシグナルを観測しながら、横目でキリウの様子を伺う。

 顔を上げてゲラゲラ笑っているキリウの左眼は、潰れてしまっていたのが嘘のように傷ひとつ無く、ぱっちりした白目をゆんゆん血走らせていた。しかし彼の左眼が治ったのは一昨日の話で、I.D.がなんとなくモノグロ用の目薬を点したせいで想定外に破裂させてしまってから、ずいぶん経っていたのだ。

 これまでキリウは怪我がすぐ治る方だったから、こんなに治らないならもう生えてこないんじゃないかとI.D.は内心穏やかでなかった。だから綺麗に治ったそれを見た時、I.D.は久方ぶりに泣いた。自分でやったくせに泣いた。泣きながら謝りながらキリウを抱きしめて、生えてきてよかったねぇと連呼するI.D.の腕の中で、キリウは米俵のように動かなかった――。

「#%@※(なんかもー、今にして思えば、いわゆる馬鹿でワルだったからさぁ。そりゃもう、悪魔を名乗ってやりたいほーだいよ。アレルゲン全部ぶち込んだクッキーを寺子屋の前で見境なくプレゼントしたり、重力発電所の基盤のスイッチいじって電源パターン探したり、つつじ園に火をつけたり)」

「ひひゃひゃひゃはひゃ」

「#%@※(オレは不幸の使者だっつって、周りを不幸にすることに命賭けてた。親も泣かせまくったし。とにかくゴキブリのように嫌われてた)」

「フナムシー!? フナムシふなふなふやはゃゃー!?」

「#%@※(ハハッ。ガキは元気が一番)」

 ところで、さっきからずっと喋ってるあの自称『悪魔』はなんなんだろう?

 見た目には古びた獣の骸骨のような頭部に、丸みを帯びた骨みたいなちんちくりんの身体。縦向きについた一つきりの暗黒の眼窩がユニークで、モノグロの変異個体のようだったが、悪魔ってのがよくわからない。ゴボゴボして変な声はモノグロの声と似ていたが、それにしては遅すぎる。こういうのをどこかで聞いた覚えがあるとI.D.は思ったが、忘れたのであまり思い出せない。

 悪魔、古くは神に楯突いたものをそう呼んだという。でも今時、神様を信じてる人なんていないからな。昔は人々も大らかで節操が無くて、ブサイクはブサイクってだけで半殺しにされたけど、それでも心は自由だった。ユートピアはあると思ってた。にわとりを侍らせて羽にうもれて暮らしていたかった、白い世界で。

「#%@※(ま、そんなオレもな。今は月並みだけど、幸せってのを手に入れたような気がするんだよね。信頼できる仲間を見つけて、家庭を持って、丸くなったってゆーか。なんつーか……変わった。身の丈に余ることはやめて、あるがままのオレで生きることに意味を見出したワケよ)」

「四角くならない??」

「#%@※(そ。こおー、結局のところたぶん、頭の悪いオレの手に負える代物じゃなかったんだよなあ。いや、こっちの話よ、気にしないでくれ。他人にはオレの悩みはわからんだろうねぇ)」

「ねぇあ」

 だめだこりゃぁ。I.D.は上を向いて頭を振る。だいぶ怪しくなった意識が、だいぶ怪しくなっていた。さっきからキリウの返答も、馬鹿そのものみたいになっているし。潮の香りの中でいつまでも大切な道具たちを広げてもいられないよ……。

 そうこうしているうちに自称悪魔は立ち上がり(足があるんだか無いんだか、二・三頭身くらいに見える体形だ)、無い尻を無い手でぱんぱん叩いて砂埃を払っていた。ああ、ラジオが終わっちゃうんだ。

「#%@※(オレ、そろそろ子供を迎えに行く時間だわ)」

「いいね」

「#%@※(それじゃあな、キリウ君。達者でな)」

「さよなら……」

 I.D.が伸びをしながらキリウに視線を戻した時、彼は踵を返して去って行く悪魔の背中に、撃ち出しタイプのプラズマカッターを向けていた。

 あれはI.D.の私物だ。貸してと言うから貸したのだが。

 ずいぶん前にホームセンターで買ったやつ。軽くて起動が早くて使いやすいけど、電池式なのが信じられないくらい燃費が――そんなこと思う間もなく、釘打ち機を二十発まとめて歪ませたような激しい音が響き渡る。

 次の瞬間、撃ち出された光の刃が、自称悪魔の胴体の真ん中を切断していた。ノイズのような無意味な声が上がったのとほぼ同時に、跳び上がって距離を詰めていたキリウが、そいつの胴体から飛び出した真っ赤なコアを蹴り潰した。

 I.D.には見覚えがあった。このメソッドは、前に交換日記をやった時にI.D.が教えた、モノグロを殺す方法だ。モノグロは胴体のどこかにコア(核)を持っている。普通に叩いたり蹴ったりするだけでは、丈夫な胴体の中で自由に動き回るコアに傷をつけられない。だから切断して、直接コアを潰さなければならない。

 が、コア自体も弾力が高いから、あれだけでは潰れていないだろう? 実際、キリウがカカトを叩きつけただけでは、透明な体液の中を転がるそれは破裂するには至らなかった。

 コアが踏みつけられた悪魔が頭部からぐぎゃぎゃと変な音を出し始め、にわかにキリウの表情が殺気を帯びる。少なくともI.D.にはそう見えた。キリウはもう二回強くカカトを落とすと、ひび割れて扁平になったコアを前方に蹴り転がして、再びプラズマカッターを向けた。間髪入れずに引き金が引かれる。反動が小さくなるように設計された、女性でも使いやすいと評判のプラズマカッターだから安心だ。

 そして光が消えた時、ごぼごぼと不愉快なノイズも消えていた。

 輝く刃が分厚すぎて、切断されたコアはほとんど焼け焦げて赤黒い残りカスだけになっていた。すかすかになった残骸は辛うじて形を保っていたが、すぐにキリウの靴の下で砂になった。キリウはざかざかとコンクリートの地面に靴を擦り付けて、それをどんどん真っ青な海に蹴り落としていく。コアから少し離れたところで、抜け殻になった真っ二つの胴体もいっしょに蹴り落とした。頭の中から転がり出てきたキラキラしたものも、ぐしゃぐしゃに踏んで壊してぶっ壊して、更にプラズマカッターで撃ち抜いたあと、同様に海に蹴り落とした。

 あの時は、いつかキリウがI.D.の寝首を掻くんじゃないかと思っていた。

 仕事を終えたキリウがI.D.のもとに歩いてきて、会釈と共にプラズマカッターを差し出してくる。I.D.はそれを受け取って、一応キリウに尋ねてみる。

「あの……あの、あれ誰?? いいの??」

 キリウは、なんでかはにかみ気味に答えた。

「知り合いだから」

 知り合いか~~。

 心底納得したふりをして、I.D.は「へー」とだけ言って自分の仕事の片付けに入っていった。まあ、大方金の貸し借りだろう。他人同士のトラブルに突っ込むほどI.D.は野暮ではないのだ。