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180.レコード #た029A25…

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 キリウ少年には色んな友達がいた。例えばこの、大きなソファに腰かけた初老の男と、彼の膝に頭をあずけて眠っている少女がそうだった。

 外は灰色の雨だった。夕方、悪い子が多いとそういうのが降るというのは、二十五番目の駅長がよく触れ回っていた。キリウはバッティングセンターの二階の廊下と事務室を隔てる壁の中にいて、勢いよく階段を駆け上がってくる自分の足音を聴いていた。

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 廊下を靴底で泥だらけにしてきたキリウは、ノックもせずにその扉を開け放った。事務室に飛び込んだキリウが、二週間と数日ぶりに見た少女は、何も変わりなく十一か十二の年頃の少女のままでいた。ただ、ぼさぼさの髪の下で彼女がどういう顔をして眠っていたのかは、彼女自身を含めて誰も知らなかった。

 初老の男がゆっくりとキリウを見た。彼と目が合うよりほんの少しだけ早く、キリウが頭を下げていた。

「ごめんなさい」

 その男は、キリウと少女の書類上の父親だった。それは名義貸しというもので、彼とそういう契約をしている若者はこの街に数名ほど居たが、こうして実際に彼と親戚のように付き合う者は少なかった。むしろ常識的には、名義貸しとそのような関係になる方が変だった。

 彼は行方をくらましていたキリウが突然帰ってきたことを、驚いてはいなかった。どうせまた、キリウが仕事でトラブルにでも巻き込まれたんだろうと察していた。ただ、雨でずぶ濡れなこと以上に荒れ果てたキリウの身なりを見て、訝った。

「おれに謝ってどうすんだよ。つうかお前、その恰好は」

 この時のキリウは、ぶかぶかの服を無理やり着せられたようになっていて、それらを上から下まで干からびた血で染め上げていた。首にはネギが巻かれ、腕はハンコ注射の跡だらけで、特に頭にはコードのついた電極が三本ぶっ刺さっていた。電極のコードの先は事務室の扉の外にずっと伸びていた。

 きっと世界の果てまで伸びてるに違いない、とあなたは思った。

 男は、キリウの全身から漂う腐敗臭に気づいていた。動物の死骸が腐った類の悪臭だった。貼り換えたばかりの壁紙が放つ甘ったるい香りと相まって、この治安の悪い街の中でも殊更に末法的と言えた。しかし彼は、それを咎めることもしなかった。

「いや。まあ、何があったか知らねえけどよ。改造でもされたか? 無事に戻って良かったなあ」

 無事、というのは皮肉か冗談めいていた。彼が膝の上の少女を起こしてしまわないように姿勢を正している間も、キリウは棒立ちで少女の頬を見つめたままでいた。

 キリウが掠れた声で尋ねた。

「オヤっさん。ユコ、なにか言ってた?」

「ひでえクレームが来てたぞ。やっぱりお前は何も考えてないんじゃないか、ってな。お前のことを嫌ってる奴らに、いつも付け回されるだとか。お前の字が汚すぎて、宿題を教えてもらっても解らないのが悲しいとか。飯食ってる最中に寝るだとか、水槽でゴキブリを飼ってるだとか……扉をノックしないだとかよ」

 キリウが引っ叩かれたような顔をしたのを見て、オヤっさんと呼ばれた男は声もなく笑った。彼のがさがさの手が、少女の跳ねた髪の先を、触れるか触れないかの程合いで撫でていた。

 ――ユコ。この少女の名前はユコ。数年前、キリウがこの街に連れてきて以来、彼女の望みでずっと一緒に生活している女の子。親元に帰されることを恐れて、本当の名前をどうしても教えてくれないから、キリウが勝手に付けた名前。

 ゆえに基本的には、キリウしか頼る者がいない彼女は、キリウに何かあるとオヤっさんの処に行くよう教えられていた。オヤっさんも、暇なのでそれをすすんで受け入れていた。近頃みたいに、何の連絡もなくキリウが姿を消した場合などは特に。

「キリウ。この餓鬼が二階から落ちた時のこと、覚えてるか? 説教しようってんじゃねえよ。思い出しただけだ。今のお前が、あの時と同じ顔をしてるもんだから」

 おかしくってな、と言って彼はまた笑った。

 キリウは彼が語るところを覚えていた。それはユコがこの街の学校に入るより前のことで、キリウが仕事に出ている間に、彼女が廃ビルの二階から跳び下りてケガをしたというものだった。幸い大きなケガではなかったが、オヤっさんが保護してくれていたユコを引き取りに行って、その理由を聞かされたキリウは、たぶん今と同じ顔をしていた。

 ユコはキリウの真似をして、自分も跳べると思ってビルから跳び下りたのだ。

 あの時も同じように、彼女はオヤっさんの膝の上で眠っていた。あの時もオヤっさんは、適当に感想を並べ立てはすれど、キリウを咎めはしなかった。彼は何も言わない人間なのだ。それはちょうど、優しさと無責任さを同じだけ持ち合わせているように。何せキリウが小さなユコの手を引いて「帰りたくないって言うから」と笑ったのが、無自覚な誘拐であることに気づいた時ですら、彼は何も言わなかったのだから。

「とにかく、てめえよ、裏で水かぶってこいよ。売店のシャツ持ってっていいからよ。その死体でも食ってきたようなニオイ、ほんとひでえ。泣くぞ、ユコが」

 オヤっさんからまた言葉をぶつけられて、キリウはやっとその場を動くことを思い出した。同時にキリウは、自分がドロドロの靴でリフォームしたての事務室に立ち入っていたことに気づき、逃げるように雨の降り続く外へと走り去っていった。

 この件がきっかけで、キリウはその時の仕事を辞めた。キリウは、まだユコには自分が必要なのだと思い、もっと危なくない仕事を探すことにしたのだ。

 けれど結局それから二年ちょいで、ユコはこの街の多くの子供たちと同じように、キリウの元を離れて一人で生活するようになった。無反省なキリウの背中を見て育ったせいか、その頃の彼女は異様に身体能力が高く、二階から跳び下りてもまるで平気な神経になり果てていた。