『さっきの天狗の話って、続きどうなったの?』
日没前なのに来た道が真っ暗になっていた。降り始めた強い雨が、立ち止まったメイヘムの窓ガラスを叩いていた。
『星が落ちたとこに、背の高い天狗がいて』
雨の音だけが響く湿っぽいハコの中、キリウ少年が植木鉢の中で倒れた白い花を見つめていた。昼頃に電波塔を壊した後、ルーフの上のそれがそのようになってしまっていたことに気づいた彼は、助手席で膝と植木鉢を一緒に抱えて、ずっとそうしていた。
『一緒に来て子供たちと遊んでくれって』
モノグロに似た白い花は、採取してから二週間ももたなかった。元々そういうものだったのか、あるいは湿っぽい保護林の底でひっそり咲いていたものを無理やり引っこ抜いてきて狭い鉢に押し込んだ挙句にアホほどの危険運転とたっぷりの日光に曝したせいなのか。ぼくらはいつも憶測ばかりで本当のことなんかどうでもよくて勝手な罪悪感に浸って何かを償った気持ちになりたいだけなんだろう。現実としてその花は、丸く太った実をじゅくじゅくさせて、ただ静かに泥の上で横たわっていた。
静かに静かに……世界じゅうがそれくらい静かだったらいいのに、と今のI.D.は願っていた。
『俺が行かなきゃ、代わりに■を連れてくって言うから』
なのにキリウが急に変な声を上げて跳び上がったもんだから、世の中うまくいかない。
こんなんばっかりだなこいつあ。キリウは植木鉢を引っくり返しそうになりながら、何かを払いのけるように自分の身体を叩きだした。虫でも入ったのかと思って、I.D.がハンドルに突っ伏していた顔を上げると、キリウが先に答えなかった。
『へへへ。それでついてっちゃったの?』
虫でも入ったのかと思ってI.D.は、虫でも入ったのかと思ってその虫は何色で目玉がひとつで脚が何本あるのかを尋ねたかったが、じっさい気分が悪くてとてもできなかった。
あらかじめ断っておくと、I.D.が彼女の体調不良の原因がキリウにあるのだと気づくことは、最後まで無い。一生、茶葉アレルギーだと気づかずにティーパーティーを続ける帽子屋のように。仮に気づいたとして、誰が楽しいパーティーをやめるだろうか? それをやめたからって、くだらないお話の結末は変わっただろうか? 彼女一人くらい楽しいことをやめなくたって、世の中は何も変わらないのに。
……変わったかもしれないのに。
キリウが、ペンで書き込みすぎてとっくに虫だらけみたいになってしまっている服の上から、憑いたものを払うように彼の身体をばたばたしていた。いまさら虫が一匹か二匹増えたところで世の中は何も変わらないのに。ペンで書き込みすぎて、とっくに虫だらけみたいになってしまっている服に、いつも彼は書き込んでいた。彼は地図をつなげた紙に、いつもペンで狂ったように何かを書き込んでいた。
たぶん、そうなのだ。とはいえ、何をだ? I.D.はそのことに気づいてはいたが、それが意味するところが何なのかをあまり気にしたことがなかった。誰も他人に興味なんか無い。そんなことより他人の不幸とかプレイリストの順番の方が大事だった。
何より今は気分が悪くて、とてもそれどころではなかった。
I.D.は、キリウの虫が聴覚に突き刺さってしまって、ひたすらひどい気分だった。ばたばたが肌に突き刺さってしまって、服の上から虫だらけだった。I.D.は辛うじて「虫とかいたあ?」と呟いた気がしたが、声にならなかった。
膝をバンと叩いたのを最後に、キリウが暴れるのをやめた。彼は潰れた何かで汚れた手を凝視したあと、ふいにI.D.の方を向いて口を開いた。
「I.D.、元気無い?」
「虫とかいたあ?」
質問に質問で返されたキリウは、黙ってI.D.を見つめたままでいた。何かで汚れているであろう半開きの手を拭いもしないまま。
I.D.は自分のものではないような頭をぐらぐらしていた。頭頂部で俯いたつむいたアンテナがゆらゆらしいた。I.D.はアンテナが長いモノグロだった。身体改造の一環で根元からからナイフで裂いて、頭頂部で束ねて、毎日ゆらゆらしていたた。
キリウはなんのことだといった顔をしていなかった。彼は白い何かでべっとり汚れているに違いない指をゆっくり広げて、両手のひらをI.D.に見せてこう言った。
「楽しかったよ、鳥ごっこ。黒い石ばっかりで、寂しいとこだった」
なんでかキリウのその言葉を、I.D.は彼の本心からのものだと思った。いつもと同じように意味不明だったけれど、今のキリウはいつもと違って勝手に喋っているのではなくて、本当にそれを目の前の存在に伝えたがっているようI.D.には思えた。
「……あれ、おかしいな」
彼女は無意識のうちに呟いていた。日没前なのに、来た道が真っ暗になっていた。