178.レコード #Bる091D4…
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キリウ少年には色んな友達がいた。例えばこの、テーブルの上に広げた流計学のテキストとノートを前に、心ここに在らずといった顔をしている少年がそうだった。
少年とは言っても、キリウよりは幾つも年上だった。彼、もといコーちゃんには更に二回り上の姉がいた。口汚いが面倒見の良い姉だった。そして今の彼は、姉とその小さな娘と共に、三人一つ屋根の下で暮らしていた。
コーちゃんが、メロンみたいな頭を椅子の背もたれに乗せてぼやいた。
「センセーさあ。こないだのウサギと亀の話って、続きどうなったのよ」
キリウを呼ぶ彼のそれはおおよそ不誠実で不感症で皮肉的で、腹から出ていなかった。キリウは、鳥ごっこに疲れてお昼寝してる彼の姉の娘の隣で答えた。
「それ終わったら教えてやるよ」
キリウの返事を聞いてもコーちゃんは微動だにせず、むしろ心は更に現世から離れていくようだった。彼は近い天井を遠い目で睨んだまま、恐ろしく覇気の無い様子で呟いた。
「センセーさあ……。なんでオレ、こんなワケわかんないの、やらなきゃいけねんだろ」
「あんたのお姉さんが、あんたの勉強見てくれって俺に言ったからだよ」全身に刺さった赤い羽飾りをむしりながら。
「ねえ(姉)もバカなくせに、なんでオレにばっかりやらせんだよ。ねえがやれよ」
「お仕事忙しいじゃん」クチバシを外しながら。
「ならオレが働くって。百回くらい言ってる」
髪に絡まったゴムが嫌な感じになって、キリウは舌打ちした。同時に思い出していた。彼の姉から、ファーストコンタクトで開口一番レズのシングルマザーだと打ち明けられた時の気持ちを。ただ余っていた蕎麦を誰かに譲りたかっただけなのに……。
舌打ちに反応してか、コーちゃんも椅子を軋ませて威嚇した。顔をめちゃくちゃ斜めに傾けている彼の所作は鳥を思わせたが、その眼底で燻る光はさながら血肉を食らう獣だった。
でも、そんなのいったいどこにいるんだろう。キリウは本の中でしか見たことない動物の話をコーちゃんにしてみたかったが、コーちゃんはその存在すら知らない感じだったので、やめてしまった。
コーちゃんがついにテキストを閉じて言った。
「オレさぁ、一応解るよ? こーゆーのがけっこう、知らないとこで使われてて、世の中便利になってんだろ? でもさぁ。なんつうか。なんか。少なくとも、オレが生きてく上では、使わない気がすんだよなあ」
「いつか使うかもしんないだろ。それにあんた面倒がってるだけで、本当にわからんちんじゃないし」
「かもで頑張れるほどピュアじゃねえよ。必要になってから勉強すりゃよくない?」
キリウはどう答えたものか迷った。もともと、意見を求められるのが伝言ゲームの次に嫌いなのだ。思わず鳥に戻って飛んで行きたくなったが、面倒なので思ったまま答えた。
「俺はそーしてるよ」
「だろ!? オレもそーするわ」
「でも俺、悪魔だから。永遠に青春だから! それに、ずっとソロでめちゃくちゃ暇だから。あんたみたいな忙しくてモテモテのパイナップル野郎が、必要になってから突然、うまいこと勉強できるとは思えないな」
「……?」
なんでか突然早口になったキリウを、コーちゃんはものすごく不審な目で見た。
キリウ自身、いったい何が自分の中にどこに触れてそうなったのか全く判らなかった。けれど何であれ、コーちゃんの目つきに気づいたキリウはとても恥ずかしくなってしまい、鳥にもなれないまま、窓から飛び出していってしまった。
十三分後、ホットケーキの材料を買ってキリウが戻ってくると、コーちゃんは床で漫画雑誌を読んでいた。キリウは彼の尻を強かに蹴とばして言った。
「ていうか、好きじゃないことをやる練習だと思って、とにかくやってくれよ。それがあんたの仕事みたいなもんだろ。ていうか、やってくれないと俺、あんたのお姉さんに申し訳ねえもの」
「教える側がそんなこと言っていいのかよ? スゲーやる気なくなったわ……」
「もともとねえだろしらじらしい」
とはいえ結局、コーちゃんがこの後の彼の人生で、流計学を使うことは一度も無かった。結果的に使えたのかもしれないタイミングもあるにはあったが、彼がそれを選択することは終ぞ無かった。
もっともそんなことはキリウが知る由もないが、
いや、今知った。