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170.インタールード(無音)

 荒れ果てた庭園があった。灰色の空から降り続ける白い虫たちの死骸にもっさり覆われて、なお隠せないほどに、そこは荒れ果てていた。その端っこの煤けた東屋のベンチでひとり、タバコの煙をくゆらしているカッパがいた。背筋のぴんと伸びた、優男風のカッパだった。

 甲羅の下に染みだらけの白衣を着たカッパは、ぼんやりと煙の向こうの埃っぽい世界を眺めていた。いつまでもそれを続けているうち、ふと彼は虫の嵐の中を近づいてくるものの影を見つけて、するどい目を上げた。――少年だ。煙越しの白い風の向こうでも判るほどに鮮やかな空色の髪をした少年が、傘も差さずに歩いてきているのだ。

 カッパは、その少年と顔見知りだった。同時に前世の親の仇でもあったが、それはそれでよかった。やがて無言で屋根の下に入ってきた少年の姿を見て、カッパは嬉しそうにくちばしを開いた。

「キリウ君じゃないか。驚いたよ。二百年ぶり……くらいかな」

 キリウ君と呼ばれた少年は、愛想か常識のどちらかが無いのか返事をしなかった。彼は全身に付着した灰白色の粉を払いもせず、来た道の方をちらと振り向いただけだった。その赤黒い瞳は実際のところ、どこでもないどこかを見ていた。特に今日はその傾向が強いよう、カッパには思えた。

 もっともこの場所には、ピントを合わせて見る価値があるものなどひとつも無かった。ただでさえ彩度という彩度が腐り落ち、砂となって吹き飛ばされたあとで、赤と青と緑の色が出ないクラリネットで描いた絵のような有様なのだから。そうでもしないと技術的にドとレとミの音が出なかったと言うんだから、仕方がないのだけれど。

 奇怪な丸い影を空に伸ばしているのは、石化した木々が埃っぽい風に削られて歪になったものだ。かつては腐りかけの水を湛えていた池も、今では干上がって白い欠片たちに覆い尽くされ、ぼろぼろに崩れた巨大な水棲生物の骨を横たえているばかりだった。

「顔を見れて嬉しいよ。いや、ここに来なかったってのは、良いことだと思う。こっちは御覧の通りさ。ドクターがいなくなってから、ずっとこんな感じなんだ。ナマズ様も死んでしまったしね」

 カッパの硬いくちばしの先から、ミントの香りの煙がほわんと上がった。棒立ちの少年の靴の下では、石畳を埋め尽くす白い虫たちの死骸が潰れていた。(潰れていてもいなくても、虫たちは地べたに降り積もってしばらくすると、氷のように融けて消えてしまうのだ。)

 カッパがベンチに座るよう促しても、少年は虚ろな目をして突っ立ったままだった。その右手に大きなモンキーレンチが下げられていることに気づいた時、カッパは差し出しかけていた手を引っ込めた。

 行き場の無くなった指を、トンボにするようにくるくるしながら、カッパはゆっくり言った。

「キミはドクターに会いに来たのかな。残念だけど、彼女はここにいない。今どこに居るかは、おれも知らない」

 偶然か必然か、関節が外れたように少年の首が傾いた。壊れているのでなければ笑ったのかもしれなかったが、どちらかといえば明らかに壊れていた。

 ――ぼさ、と音がした。そこの天使の像に積もり積もった虫たちの死骸が、ひとりでに崩れ落ちたようだ。この庭園には天使の像があった。それは見るたびに違う顔をしていて、コウモリだったり魚だったりメトロノームだったりしたけれど、どれも等しく天使だった。

 今日のそれはたんぽぽだった。脳みそに落ちた綿毛が芽吹いて生まれた、青空が恋しくなって涙がこぼれるような、それを吸って健やかに咲くような、優しいたんぽぽの花だった。反面、だいたいどこに落ちてもそれなりに咲くであろうたくましさを持ち合わせてもいたが。

「決して彼女に見捨てられただなんて、ショックを受けないでくれよ。キミはそんなヤワな性分じゃない。何よりキミの中にはまだ、ほら、両手で数えられるほどの愛が残ってる。キリウ君はひとりだけど、彼女に愛されている。神すら愛さない、こんなガラクタのような世界でね」

 ざらざらになった天使の像を見上げるカッパの目は、愛しさに満ちていた。カッパは一呼吸置いた後、短くなったタバコの火を、自分の頭の皿に押し付けて消した。彼の皿はつややかに湿っていたが、その部分だけは灰と焼けた鱗粉とが折り重なるように焦げ付いていた。

 一方で、少年の瞳はみるみるうちにどす黒くなっていった。今日これまで、死体が立って歩いているかのようだった少年は、打って変わって傾いていた首を異様な仕草で上げた。カッパの言い様が気にでも障ったのか、彼は深淵から見つめ返すような目になってカッパを見たが、そんなことはどうでもいい。カッパもわざとそれに気づかないふりをしているのだ。

「嫌悪感でもいい。必要に駆られてでも構わない。どうしても照れくさいなら、電波のせいにしたっていいんだよ。それでもおれは、キリウ君が自分の意思で向き合おうとする気持ちが一番大事だと思ってる。今は聴こえないかもしれないけど、目が覚めたらもう一度、耳を澄ましてみてほしいんだ。そうしたら」

 そこまで言うと、カッパは押し黙って下を向いた。それから急に思い出したように腹の袋から細長いビンを取り出して、身体の前にかざした。

 密閉されたシリンダー状のビンの内側は、粘度の高い透明な液体で満たされていた。その液体には、みずみずしいままの赤と青のアジサイの花(萼)と、隙間にたくさんの角切りのキュウリが閉じ込められていた。白と黒ばかりになった世界で、それは光り輝く毒のようだった。

 カッパはそのビンを少年に差し出して、微かに笑った。

「綺麗なうちに保存しておいたんだ。おれがキリウ君のためにできたことは、これくらいだった。受け取ってくれるかな」

 少年の返事は無かった。代わりに彼は、握り締めていたモンキーレンチを目にも止まらぬ速さで水平に振るった。

 レンチの先端は確実にカッパの顔面を狙っていたが、実際には勢いよくビンだけを直撃した。カッパが特有の挙動で咄嗟に身を躱したからだ。ぱあんと弾けたガラスの欠片とビンの中身をかぶって、カッパの白衣は宝石をちりばめたみたいになった。まるで最初からそうだったかのように。

 カッパはほんの数秒の間、石畳に飛び散った液体が白い虫たちの死骸の上をじんわり覆っていくのを見下ろしていたが、すぐに顔を上げた。そしてレンチを構えたままの目の前の少年を見据えて、まったくの無表情で呟いた。

「おれは……キリウ君に話しかけてるんだけどな」

 もういちど少年が右腕を一閃した時、今度はちょうど飛び退いた先で、カッパの頭は皿ごとレンチで叩き割られていた。

 さらに一回、もう一回と凶器が振り下ろされたあと、東屋の下はここにある何よりも鮮烈な赤で染まっていた。それはアジサイの赤と青も、キュウリとカッパの緑と緑も塗りつぶして、今だけは空から降る白いものに覆われることなく輝いていた。