仮定の話だけど、もし自分たちが御神体から授かったものが、アカシックレコードの読み取り権限だとしたら。書き込み権限も、この世のどこかには存在するのだろうか?
もし本当にそんなものがあったとしたら、きっと魔法と区別がつかない。たとえば、このマグカップをにわとりに変えることもできてしまう。無からにわとりを生み出せるか? あの白いがれきを、全部にわとりだったことにできるかな? それで、みんな奈落の底に落ちればいい。
こういうバカなことを考えてると、脳みその後ろあたりに電波がビリビリくる。どうせなら、私は電波塔を引っこ抜いてみたい。調べれば調べるほど、自分らは、電波が無いと生きられないのだと感じるから。電波がとどかないところで生きてたら、自分は毎日何を考えて、何をして過ごしてるんだろう。
――D73E年 某月 某日
いったいこの街の何処にこんなにも人間が潜んでいたのだ。なんて、慌ただしく駆けてゆく哀れなオタクたちとすれ違いながら、キリウ少年は声もなく笑っていた。
「キリウちゃん、楽しい?」
そんなキリウを不思議そうに見上げてくる少女がいた。もちろん人形少女のコランダミーだ。ぽてぽてとキリウの隣を付いてくる彼女は、もう誰の所有物でもない――製造者いわく『野良』――けれど、まだキリウのことを、昨日までと同じように親しみを込めて呼んでくれていた。
「楽しいよ」
キリウは返事をしなかった。代わりにキリウが答えた。何の感情もこもってないキリウの声を聴いて、キリウはぎょっとした。まるで自分の声ではないみたいだった。
一方で、いつも通りにぽやんとしている彼女の大きなガラス玉の眼球には、もはや不思議な花も動物も映り込んでいない。抱きしめたら壊れそうに華奢な背中にも、天使の羽は生えていない。妙ちきりんな磁力や後光を放出していたりなども、もちろんしていない。今の彼女は、人形であること以外は、まったくなんでもない普通の女の子だった。白い頬が愛らしい、普通のちっちゃい女の子。
持ち主がいない人形の性なのか、隙あらばキリウの指先を握ろうとしてくるのはとても油断ならなかった。実際、誰のものでもないコランダミーは馬鹿か冗談のように可憐で、これが人の手で作られたものなら恐ろしいくらいだった。きっと本当の彼女は空の上に居て、流れ星といっしょに落ちてきた爪の欠片から、罰当たりな人がその姿を想像してこれを作ったに違いない。
解るか? 本当にヤバいのは、勘違いして偶像を崇めてるバカじゃない。偶像を作っておきながら、正気でいられる奴の方なんだ。新品の白いワンピースに身を包んだコランダミーは天使のようだったが、天使ではなかった。もともと彼女は天使なんかじゃないのだ。誰かが見た夢が、そこにあったというだけで。
キリウは……歩いていた。日に三本だけの列車に乗るために、駅に向かって歩いていた。勝手にミシマリの家を出てきて、歩いていた。数少ない住民(『所員』)らが、ぱらぱらと一方向に集まってゆく流れに逆らって、ひとり笑いながら、うつむきながら。ぜんぜん楽しくもなさそうに。
一時間ほど前、急に御神体が砕け散ったとかで、ミシマリは誰かに呼ばれて出ていった。ミシマリはキリウに「ちょっとプチプチをつぶして待っててね」と命令したが、キリウはメイデンたちがモノポリーをしている間に、マイクロ波のシャッターをぶち壊して出てきてしまった。
コランダミーはそんなキリウを咎めなかった。あまつさえ、これまで長いことそうしてきたように、今日も隣を歩いていた。彼女はキリウを見送ってくれるらしかった……。
そうだ、キリウは行くのだ。行かなきゃいけない、と思ったからだ。
でも、行かなきゃいけないとこって、どこだろう?
はやいほうがいい。きづかれる。
「キリウちゃん、どこいくの?」
誰のものでもないコランダミーが尋ねました。誰のものにもなりたくないキリウは答えました。
「やらなきゃいけないことができたんだ」
でも、やらなきゃいけないことって、何だろう? 何でしょうか? ただ胸の奥に、頭の上に、耳の裏側に、やらなきゃいけないのだという衝動のようなものだけがある。胸の奥から、頭の上から、耳の裏側から、声が聴こえて、翅音に掻き消されていく。
……ようずみだ。
「あたしもね、しばらくお勉強したらね、また旅に出るんだよ」
コランダミーの口調は、昨日までとは少しだけ異なっていた。鈴のような声色は同じだったけれど、感情豊かでころころとしていた雰囲気が幾分か鳴りを潜めて、もっと夜空が似合う喋り方になっていた。恐らく、彼女の人形としての機能がキリウの好みを反映しているのだろう。
キリウはポッケに突っ込んでいた手を出して、ずっと握っていた小瓶をコランダミーに差し出した。彼女は灰白色のかけらが入ったそれをじっと見つめたあと、顔を上げて呟いた。
「トランちゃん?」
「持ってて」
瓶の中身は、崩れ落ちて砂になってしまったトランのしっぽだった。キリウはコランダミーのひんやりした指にそれを握らせた。
「ゴラッソによろしく」
遠慮がちに受け取ったコランダミーが、いつもの鞄を自室に置いてきたことに気づいて「えへへ」と笑ったのを見て、キリウも笑った。たぶん、今度はちゃんと笑っていた。
荒れ果てた街道をのんびり歩いてきて、二人はあっという間に駅に着いた。駅では、ちょうど入ってきた列車が大量の荷物の積み下ろしをしている真っ最中だった。キリウは首にかけていた立入許可証を窓口で駅員に返して、乗換駅までの切符を買った。
駅員は街の様子がちょっとだけ騒がしいことを気にしていたが、構うこたあない。彼らにはIDが見えない。キリウが『連れてきた』ものなんて、分かりゃしない。適当に返事をしておけばいいから――。
「キリウちゃん」
有人改札を抜けたキリウの背中に、コランダミーの声が飛んだ。
キリウが振り返ると、彼女は透き通る水色の瞳に微かな不安を浮かべていた。そして再び、「どこいくの?」とキリウに尋ねてきた。
キリウは答えられなかった。分からなかったからだ。分からない、と答えることもできなかった。答えられなかったからだ。
ただ、最後に、別れの言葉だけは言わせてほしいと願っていた。だから答える代わりに答えた。
「じゃあね、コランダミー」
そう言ったキリウが笑っていたからか、コランダミーもつられて笑って手を振ってくれた。
「ばいばい、キリウちゃん」
だからキリウは、だから列車で、だから行く。思い出をここに置いて、行かなきゃならない。翅の音が消えていく。
警戒色の柵も、ゼロの向こうまで続く白と黒のがれきも、永遠にうんざりする。星のかけらのような生き物たちの輝きに、希望を感じることも無い。俺は神なんかじゃないし、ほんとの神はここにいない。
どこにもいないから、行かなきゃならない。キリウは行かなきゃいけないのだ。