133.眼科にて
「中二病です」
手術用のマスクをした精神科の女医が言った。何の発作だったのかとキリウ少年が聞いたからだ。
緊急外来で担ぎ込まれていたキリウは、ベッドに座って血圧と面の皮の厚さをいっぺんに測られながら、少し自棄になっていた。
「虫だらけなのと、目が覚めたら服が血だらけなのと、友達がだんだん天使になっててわけがわからないっていうのが、それなんですか?」
キリウが言い終わるのを待って、女医は洗濯バサミ状の器具の一端をキリウの口から引っこ抜いた。面の皮の厚さを測るのに使っていたものだ。それをゴミ箱に放り込んで、彼女はディスプレイに向かってキーをタイプしながら続ける。
「いえ。そういうのが気になってしょうがないところが、です」
この赤い髪をした若い女医は相変わらずのつっけんどんな物言いだったが、優しい声もまた相変わらずだった。――相変わらず? そうだ、キリウは以前にも別の街で彼女の診察を受けていたのだった。
ぱちぱち鳴っているのも虫の翅音ではなく、彼女のくすぐるようなキーストロークだ。できればキリウはこのまま横になって、それを聴きながら寝入りたいと思っていた。きっと脳みそを湯煎にかけながらホイップされるように気持ちよくて、夢を見る暇も無く、目を覚ましすらしない、最高の眠りが訪れるに違いない。
そんな空想に蹴りを入れるがごとく、血圧計からボルルルルと奇妙な音。盗み見ると上8000、下マイナス3。消火器か死体か。
「俺、どこか悪いんですか?」
「頭が……」
そう言うと女医は何の説明もなく手を伸ばして、ずいとキリウに顔を近づけてきた。彼女はキリウのまぶたをめくってライトで照らし、血走った眼球を覗き込んだ。
「それと、あちこちがオーバーフローしてますね」
そしてそこに意味を見出しているのだ。キリウからすれば、女医が深淵を覗き込んでひとりで喋っているように思えたが、その瞳を覗き返せるなら、それはそれで良いようにも思えていた。覗き返した彼女の瞳はひんやりとして、キリウとは少し違う赤色を帯びていた。
しかし目元から彼女の指が離れたとき、ふとキリウは、いま思い浮かべた自分の瞳が、むかし列車の席で見ていた弟のものであったことに気づいた。互いに無言で、微妙に趣味が違う本を読んでいた時のだ。どうして今更になってそんな光景を思い出したんだろう。
当の女医の瞳は、今はディスプレイを見つめている。軽く首を傾げた彼女の、切り揃えられた真っ赤な髪の先が、作業着の肩に触れていた。この医者がワンピースの上に着込んでいる白い服は、よく見ると作業着ふうのジャケットだった。
彼女は微かに苦味を帯びた顔になって口を開いた。
「ごめんなさい。わたしが以前に『当面は血を見ないように』と言ったことがまた、かえってあなたに強迫を与え、負担をかけてしまっていたようですね。頭から黒いのも生えてますし」
言われて初めてキリウは自分の頭を触る。つむじから側頭部にかけてばっくりと裂け目が走っており、そこから尖ったゴムのかたまりのようなものが大きく飛び出していた。爪でひっかくとボロボロ崩れ、髪の隙間からこぼれ落ちた欠片は、確かに黒い色をしていた。
それ自体はややあることだ。そういうものだから、しかたないのだ。そうだとしても、キリウには女医が言っていることの意味が分からなかった。彼女が前に言ったという言葉を、キリウは今の今まで忘れていたはずだからだ。けれど医者が言うならそうなのだろうかとも思った。
「見てもだいじょうぶですか?」
「いえ……はい。生活習慣の改善無しに場当たり的な対処をしても、別の歪みが生じてしまうということです。もう少し根本的な治療が必要でした」
白痴のようにうなずいたキリウの頭をじっと見て、女医はまたキーを叩いた。
「自立を助けるお薬を出しておきますので、毎日飲んでください。薬剤師さんの話をよく聞いて、正しく服用してくださいね。また来られるときに来てください」
「じりつ?」
「はい。自転車に乗るようなものですね」
彼女はキリウをその場から立つように促した。しかしキリウは何かに釣られるように、もう一度自分の頭を撫でた。そこで牙を剥いている『それ』の存在を指先で確かめながら、祈るような気持ちで、目の前のひとに尋ねずにはいられなかった。
「あの、俺って、なんなんでしょうか?」
てっきり返事は望めないものだとキリウは思っていた。
なのに女医はキーを叩きながら事も無げに答えた。
「あなたはID=552171000001です」
――。
「お大事に」
彼女が手元のレバーを引くと、床がぱかっと開いてキリウは落とされた。