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132.続・市街戦の夢

 真っ赤――真っ赤な水たまり。終わらない花火大会。

 頭の中で目ん玉が弾ける寸前、キリウ少年は暗闇の向こう側でコランダミーの楽しそうな笑い声を聴いた。彼女は腕の丈に合わない刺身包丁をずどずど振り下ろして、罪深いキリウをかっ捌いていた。このへたっかす、と罵倒して引きずり回したくなるところだが、そんなことはどうでもいい。キリウがザリガニなのか魚なのかバッタなのかフナムシなのかとか、そういうのも本当にもう、この際どうでもいい。

 ――その『兵士』の靴の先が、地べたに組み伏せられているキリウの左目に沈み込んでいたのは一瞬だったが、柔らかい眼球を顔面もろとも蹴り潰すには充分すぎた。それが乱暴に離れるとともに、キリウの鮮血で染まった眼窩は中身を飛び散らかしていた。

 拒絶感から叫ばずにはいられなかったキリウの襟首を、別の兵士の一人が激しく踏みつけて黙らせようとする。というのは味にうるさいタイプの見方で、実際には単に蹴りたかっただけだろう。キリウは自分の頭の内容物に押し付けられて、胃液混じりに噎せ返った。捩じ上げられたままの腕の痛みが吐き気に拍車をかけていた。否応なく跳ねた身体の内側は、割れた骨があっちこっちにめり込んでぐちゃぐちゃだった。

 形が戻らなくなるまで力をかけるという単純な一点において、モノを壊すのも生き物を壊すのも何ら変わらない。力任せに押し潰せば中身が出るのはシュークリームも人間も同じだ。けれど今のキリウは、彼らが簡単に真ん中を潰してはこないことに気づいていた。それが決して慈悲ではなく、タチの悪い酔狂であることにも。

 脂が浮いた真っ赤な水たまりに、青覚めてきた空のうっすらとした光が落ちて揺れている。キリウがずっと見ていた光だ。こんな時ですら……。

「だめー! あたしのだよ、さわらないでよぅ」

 こんな時ですら、どうしようもなく気の抜けた声が路地の壁にこだました。そっちらへんで、コランダミーがモゴモゴわめいているからだ。彼女は珍しく半べそをかいて、自分を捕まえている不躾な兵士の腕の中で暴れていた。

 ――兵士。その武装した集団はこの『街』で紛争を続けている者たちの一派であるように見えたが、それを兵士と呼ぶのが正しいかどうかは、余所者のキリウには分からなかった。彼らは皆一様に全身をすっぽりと覆う黒い服を着込んでおり、また奇妙なスコープ付きのマスクで顔を隠していたので、外見だけでは年頃や鼻の有無も定かではない。薄闇の中で彼らの装いはかえって目立っていた。少女の白い肌を捕らえてうごめく黒色は、キリウの目に殊更おぞましく映った。

 しかしキリウは、いつ砲弾だのロケット花火だのをぶち込まれてもおかしくない戦場の片隅で、こいつらはなぜ悠長に民間人を虐待しているのだろうと疑問に思ってもいた。もしかすると今更好き好んでこの戦線に参加しているのは、とっくにヨダレを垂らしながら戦うこと自体が目的であるか、それに付随して人殺しや人体実験をしたい奴らばかりなのかもしれない。

 ちょうど、コランダミーの抗議を無視して彼女の荷物を漁っていた兵士の一人が何か言った――ようだ。生身の人間の可聴域を迂回するように施された声だった。他の兵士たちは一斉にそちらを向き、キリウを半殺しにしていた殴る蹴るも止まる。

 そいつが何を言ったのかは想像するほか無い。なのに、ヂャリリと金属がこすれる音を聴いて、キリウは頭を過ぎった悪い想像が的中したことを確信した。いまコランダミーの鞄から引っ張り出されたのは、彼女が死体から剥ぎ取って集めていた迷子札の束に違いない。そこに、彼らの友軍が持っていたものの形があったとしたら……。

 ほんの少しの間があって、コランダミーがぎゃんと鳴いた。腹に膝を入れられたのだ。続けざまに固いブーツが地面を蹴る音と、さらに彼女のくぐもった悲鳴。

 何が行われているのかを頭で飲み込んだとき、弾かれたようにキリウは、今度は自分から叫んでいた。

「ち……がうッ、違う、やめろ変態ども!! その子じゃない!! それは俺がっっ」

 すぐさま後頭部にもう一撃を貰って遮られる。その通り、どうにかなるなんてキリウは思っちゃいなかった。けれど、彼女の行いを笑って見ていたキリウにはそれを言う義務があった。

 嘲るように兵士たちが、苦し気に咳き込むコランダミーの折れそうな首根っこを掴んでいる。華奢な肩をおもちゃにするように揺さぶり、どつき回している。煤けた街に似つかわしくないコランダミー。灰をかぶったたんぽぽのようなコランダミー。

 自業自得? 誰かに言われなくとも生まれた時からキリウは知っていた。そして、そうだとしてもキリウは裁かれるつもりなど毛頭無かったし、コランダミーを誰かに裁かせる気もまた無かった。開き直り? それがどうした。だからこんなところで彼女を裁こうとする奴がいるのなら、殺してでも止めなければならなかった。なのに――。

 足りてない。何がどうして足りてないのかは言葉にできない。ただただ今日に限って、まだ何かが足りてないことが解るだけ。

 無理やり動かそうとしたキリウの肩が砕けるより先に、コランダミーがキリウのほうを向いて、細い声で言った。

「キリウちゃん……、こっち見ないで」

 直後、空気を震わすような不気味な電磁音が響いた。同時に、コランダミーの正面に立っていた兵士の一人が激しく身をよじり始めた。

 その兵士の首元には――黒い布地の上から無数の紐状のものが突き刺さっていた。辿った先にはコランダミーの白い指があった。彼女の指と爪との間から、目にも留まらない速さで緑色の被膜に覆われたケーブルが飛び出して、そこに食らいついていたのだ。

 ……が、兵士がもがきながらも必死にそれをちぎり捨てたのを見て、コランダミーが素っ頓狂に言った。

「あ、あれっ? ちゃんとささらなかった」

 ワンテンポ遅れて、指を掲げたままのコランダミーは、背後にいた兵士に首と上体を固められていた。直後、地面から浮いた彼女の細い足が、垂れ下がったケーブルとともにびくりと大きく震えた。

 プラスチックが割れるような――ぬいぐるみをちぎるような音がした。殺意に満ちた暴力によって、コランダミーの首は折り――むしり取られた。彼女の内側から人工繊維の束――汚れた綿――が飛び出し――。

 ――いや、どっちでも――たぶん。

 あまり関係ないことだ。

 ねじ切られて地面に転げ落ちたコランダミーの頭を見たその瞬間、キリウは、傍らで赤い水たまりの上を這っていた白い虫を噛み潰した。歯の下で硬い翅が割れ、どろりとした体液が噴出し、実在しないそれが事切れるのを感じたとき。髪の隙間からばたばたと飛び出してきた別の白い虫が、キリウの血まみれの左目から内側に潜り込んでいた。

 目の奥が壊れるような激痛。腕と肩を砕きながら身体が仰け反る。叫んでいた。虫の長い触覚が脳みそを内側から撫でる感覚。嘔吐する。

 どこかでグチャッと音がして、暗転。

 

 

 

 

 ――。

 

 ――。

『なあキリウ、こんなことまでして、どーして生きてるんだろうな』

 ――知らねえよ。

 

 ――。

 ――耳鳴り。

 遠いような近いようなどこかで、コランダミーの声がひっくり返っていた。

 キリウは――腕を動かして、自分のまぶたに恐る恐る触れた。薄い皮膚の下では二つの眼球がごろごろ動いていた。脇腹を撫でると、肋骨も全て元の位置に納まっていた。

 目を開く。キリウは落ちた時と同じ路上に横たわっていた。身体を起こす。黒くてぱりぱりしたものが、顔から腕から次々と剥がれ落ちた。仄かな朝焼けに照らされた街角には人間の血肉がぶちまけられていた。見回す。それはあの兵士たちの屍、もしくは屍だったものだった。

 右と左の真っ二つに引きちぎられたもの。上と下と真ん中の三つに引きちぎられたもの。八つ裂きにされたもの。首から上しか見つからないもの。鉄筋むき出しのコンクリートで串刺しになったもの。黒い服に包まれたまま死体袋になったもの。原型をまったくとどめていないもの。

 頭が割れたような痛みをこらえて立ち上がる。キリウは、ちょうど血だまりに浸っていた靴がべしょべしょに濡れていることに気づいた。コランダミーの声がした方を見ると、ひっくり返っている彼女の生首があった。そして全く違う方向に、うまく歩けなくて七転八倒しているコランダミーの胴体がいた。

 コランダミーの首の切断面からは様々な色のケーブルや素材がはみ出していたが、目をこすってもう一度見ると、それらは汚れた綿のかたまりに変化していた。キリウが拾い上げた首を胴体に渡してやると、彼女はおぼつかない手つきで受け取り、恥ずかしそうな顔をして頭に乗せた。

 ――ありがとお。ごめんね。

 どこからか取り出したステープラーで首を仮止めし始めたコランダミーが、そう言ったようだった。見せたくない姿を晒したのは互いに同じだったのかもしれない。あいつらにも相手にされずに打ち捨てられていたキリウの鞄を見ると、その背ではリボンで雁字搦めに縛られたトランが白目をむいていた。こんなことしたからバチが当たったのだ。

 耳鳴りの向こうの遠くの遠くで線路が軋む音がしていた。数ブロックほど離れたところでは小規模な爆発音。あとは……ヒトマル線の駅までの道すがら撃ち殺されたくないだけだ。