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128.トマトは赤い、赤いはキリウ

 キリウ少年はきらきらした灰色の魚だった。だから水底に落ちてきたトマトを食べたら、中に針が入っていて、吊り上げられてしまった。

 空気に溺れながら、ノドを裂かれる痛みにタモ網の中でもがいている。するとまた誰かの手が現れて、粘膜の剥げた身体を鷲掴みにされる。ヤスリみたいにザラザラした硬い皮膚、火傷しそうに熱を持った指先が、キリウの口の中から無理やり針を引っこ抜く。えづいてる暇もなく石だらけの地面に押さえ付けられる。霞む目でキリウはその人を見上げている――ああ。河川敷のオッサン、俺だよ。やめてよ。捌かないで。シメないで……そのナイフで。

 頭の内側でグリャッと音がして、暗転。

 

 

 やっぱりだ、あのトマトは紐で吊られている。そいつの斜め下で立ち止まったキリウは、真っ赤な玉の天辺から空の彼方へと続く白い紐を見出した。この世界を釣ろうとしている誰かはその先に居る。

 とはいえ、あんまり大げさなことを言うのは感心しないな。立ち止まるついでに反省したキリウは、当事者意識を持って考えた。結論として、それはおそらくキリウを釣ろうとしているのだと確信した。ケンカを売っているのか! 誰が何をどうやってだ!

 ブチ切れながら三歩助走をつけて、巨大なトマトに潰されかけているビルの屋上を目指して跳んだ。勢いあまって身体をひねりながら、キリウはトマトの真上に着地した。見ると、そこにあった大きなヘタの陰から、確かに紐、それも限りなく紐っぽい風情のワイヤーが空へと伸びていた。

 さて、考えなしにここまで来てはみたものの、どうしようかとキリウは紐を掴んで引いてみる。トマトが接地しているせいか、ほんの少したわんだ紐は重たく揺れた。鯉のぼりごっこする? 設定を無視して空でも飛ぶ? それとも……。

 その時、急にトマト(=以下、大トマト)の側面がドアのように開いて、中から数名のトマト頭が出てきた。トマト頭というのは、頭がトマトになってる人だ。長身にミリタリールックな赤いワンピースをまとった彼女らは、亀裂の入った大トマトを見て何やら話していたが、やがて上にいるキリウに向かって拡声器で呼びかけてきた。

『キリウさんですね。ご同行願います』

 ひどい作り声だ。同時にキリウはその意図を理解した――そうきたか。これを『釣り』と呼びたけりゃ呼ぶがいい。ただし……甚だ潔くない。

 口では願いますと言いながらも、実際のところトマト頭たちは鎖鎌・さすまた・醤油ちゅるちゅるなどで武装してキリウを待ち構えていた。テーザー銃の照準を向けられたキリウは、即座に砂糖をぶちまけて応戦した。砂糖を浴びたトマト頭たちは野菜としてのアイデンティティを失い、次々と干からびて倒れてゆく。

 しかし、ただひとり残った砂糖派のトマト頭との死闘の最中、ふいに大トマトが紐に吊られて動きだした。遊んでる場合ではない、追わなければ。殺意のこもった釘バットを紙一重で躱したキリウは、トマト頭のスカートをめくって動揺させた隙に、彼女の間合いから離脱した。真っ赤な声を置き去りに、キリウは隣の建物に飛び移りながら走った。

 数分も走ってようやく追いつくと、大トマトは庭園の真上で止まっていた。区画を丸ごと潰した敷地に白い花だけが容赦なく咲き誇っている、そんな庭園だった。そのうえ、目が無くて身体が長くて脚が十本ある動物が、いたるところでのたうち回っている。とっくに祭りは始まっていたのだ。そいつらは組体操の要領でトマトに到達し、クライミングに勤しんでいた。さらに紐をもよじ登り始めていた。

 なぜ彼らは地に足を着けて生きられなくなったのか? それはきっと空の果てに楽園があるからだ、とキリウは思った。けれどあんなに長い紐を丸腰で登るだなんてファーストペンギンすぎ……いや、待てよ。

 キリウはまっすぐそれを指差して、心の中でつぶやいた。

 引きずり落としてやる。この紐を持ってる奴を。

 ――白い花が一斉に逆立って見えた。直後、その下から一億匹の白い虫たちが爆発したように飛び出した。雹の嵐に似た凄まじい翅音を上げて、空を覆って余るほどの虫たちは我先にとトマトに飛びついた。それも例の動物のさらに上からだ。祭りだ祭りだ! 超高圧状態となった中心部で光が生まれた。輝きだした。超伝導体と化した虫たちが放ちまくる電波は讃美歌となって僕らの心に届いた。

 めいっぱい張っていた紐がふわりと笑ったように見えた。空の彼方か地の底かのどちらかで破裂音がした。支えを失った大トマトが白い庭園に落ちる。吊られることで保たれていた形が崩れ、破れた皮から尖った釣り針が露出する。あふれだしたトマトの汁にまみれて、みんな喜んだり溺死したりしている。

 虫たちと例の動物たちがじゃれあっているのをよそに、キリウはばたばたと地面にとぐろを巻いていく紐の先端を青空に探していた。すぐに見つかった。一緒に落ちてくる何かの姿があったからだ。

 白く輝くそれは、ついに重力の限りを尽くした速度でキリウのすぐ隣に突っ込んできた。それはコンクリートに跳ね返って吹っ飛び、屋上の柵に叩きつけられて止まったが、代わりに柵は根本から砕けて大通りに落ちていった。

 まぶたに焼き付いた光と耳鳴りの中、キリウは最後に残されたそれを見る。

 コランダミーだった。

「あうぅ……」

 背中にフワッフワの天使の翼を蓄えたコランダミーが、うめきながら身体を起こしている。なんでか彼女は傷一つ無く、ちょっと転んじゃったみたいな風情だった。

 きょろきょろしてるコランダミーに声をかけようとして、はたとキリウは固まった。あれ? コランダミーだ。それ以外に無いが、すごく変な感じがしたのだ。ふと、おぞましい考えがキリウの頭を過った。これ本当に夢なのかな。

 再び潰れた大トマトに目をやる。相変わらず祭りは続いている。冷静に考えると、あの乱痴気騒ぎのどのへんが祭りなのかまったく理解できない。ならば、あれを祭りだと思ったことそのものが答えなのだろう。何よりバグったキャラしか出てこない。夢のはずだよな? 視線を戻すと、案の定コランダミーはバラバラに壊れた人形になっていた。

 なんかも~疲れたよ。また心の中でつぶやいて、キリウは人形の傍らにうずくまった。ボタンが取れてちぎれた小さな手にそっと触れた――その時だった。

『なんということをしたのですか、キリウさん。あなたは自らこの地獄に留まることを選んだのか』

 斜め上から拡声器越しの作り声が響いた。嫌々見ると件のトマト頭だった。わざわざここまで追って来たのだろう、彼女は釘バットを引きずって肩で息をしている。

 塩でもかけてやればよかったが、あいにく至近距離で拡声器を使われて一気に神経がささくれ立ったキリウにそのような余裕は無かった。トマトの頭は赤すぎて、彼女が怒っているのかどうかさえ分からない……。キリウはコランダミーのガラス玉の瞳を拾って立ち上がり、ポッケに入れた。そしてトマト頭に一歩だけ近寄って、カマキリのように拡声器をひったくった。それを使って言い返した。

『ここは地獄じゃない』

 が、なぜそんなことを言ったのだろう。ただキリウは、むしょうにこのトマト頭が気に食わなかっただけだ。それに、たとえ本当のことだとしても、昨日今日で空の上からやってきたポッと出に言われたくなかったからだ。

「あなたがそれを言うのですか。強がるのも格好つけるのもやめなさい。あなたはただ大きなトマトに逆らえばよいと勘違いしているだけの、跳ねっ返りの餓鬼だ。この世界を食い散らかすだけの害虫だ。大人しく、丸くなりなさい」

 トマトの……ように。

 トマト頭は釘バットをキリウに突きつけて、無反省にも尊大な態度をとっている。それを見上げてキリウは鼻で笑った。その悪夢の足元に拡声器を叩きつけて言った。

「あのさあ、乗ってきたアレが無いのに、あんたらどうやって天上に帰るつもりだよ」

 壊れた拡声器が気持ち悪いノイズを上げている。にわかに緑色を帯びたトマト頭に、キリウは手放しでもう一歩、さらに一歩と詰め寄る。今の彼がとても恐ろしい笑みを浮かべていることをキリウ自身は知らない。

 大トマトに飽きた一億匹の虫たちがふたたび空を舞い始めていた。ざあざあ鳴る――翅音が鳴る。トマト頭は後ずさり、詰められすぎて構えあぐねていた釘バットを強引に振り上げようとするが、すぐにキリウに腕を掴まれる。

「やめなさい――」

「サラダ記念日!!」

 柵の無くなった屋上の縁にトマト頭のスカートの裾が躍った。ほどかれた指からこぼれた釘バットが一足先に落ち、虫の渦に呑み込まれた。

 風の中で掴み返された手を、キリウは振り払わなかった。