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127.さよならトマト、またきてトマト

 キリウ少年は変な夢を見た。自分がザリガニになった夢だ。

 青灰色の殻をしたザリガニのキリウは、埃っぽい水底でじっとして、頭上をさらさら流れる川の気配を感じていた。すると目の前に紐で吊られた大きなトマトが降りてきて、もっぱら皮に開いた穴から青臭い香りを漂わせてくるのだ。興味本位からキリウはそこに右腕のハサミを突き刺した。その途端にトマトは急浮上を始めた。それを挟んだままのキリウも吊り上げられて、すぐに全てを太陽の光の下に引きずり出された。

 空気に晒されたエラがぴりっと痛む。触角に触れるものもなく、パニックを起こしかけている。この手を離してよいのかすら判らず、ただハサミに力を込め続けている。そうして静かに重力に揺れられていた身体を、後ろからむんずと掴む白い指が現れた。小さなその手の主はコランダミーだとキリウは思った。ザリガニの複眼ではよく見えなかったが、泡を噴きたい気持ちになりながら、根拠もなくキリウはそう信じていた。息をするたびにエラから鈍い痛みが広がっていく……。

 それだけの夢だ。今はもっと小さく感じるコランダミーの手が、ひんやりした指が、チョキを作ったままのキリウの手に触れていた。血走りがちなキリウの目には、困惑するコランダミーの表情もはっきり見えていた。彼女の額に張り付いた白い虫が静かに翅を休めている。

「キリウちゃん、チョキだめ」

 言われて、はっとしてキリウは手を開いた。往来で商売をしている彼女のもとを訪れて、手相を占ってもらっていた最中なのに。

「いま自分のことカニだと思ってた」

 そう口走ったあとで、キリウは急に生きていることが恥ずかしくなった。しかしワンテンポ置いてコランダミーが笑い出したので、びっくりする気持ちが勝って救済を得た。キリウが言ったことをコランダミーが面白がるのは随分珍しいことだ。

 笑いの切れっぱしを飲み込めないままのコランダミーが、モノラルプラグの先端でキリウの手をぷにぷにしている。キリウはほかに手相を見てもらった経験が無いか、あるいは忘れていたため、彼女のそれがどういった流派であるかは分からなかった。何より、気を抜いていると自意識がアンプかエフェクターに変化しそうだった。それでも、彼女にこうされたいがために手相占いに訪れる客もいるのだろうと漠然と思っていた。きょうキリウの前にここに並んでいた人たちの中にも。

 やがてコランダミーはムーと唸って首をひねった。額から白い虫が転げ落ちた。彼女はキリウの脈をとりながら言った。

「朝に弱い相が出てますねぇ……健康面では、かつおぶしでクシャミに注意。前世はフナムシで、来世はありません……。探し物はゼロより下にあるでしょう」

「厳しいな。他には?」

「今の仕事をつづけると、七十歳過ぎくらいで、印税目当ての幼なじみと結婚するでしょう」

「俺が七十歳になるの?」

「……! むー、ならないね」

 存在しない未来に迷い込んでしまったらしきコランダミーは、一気に難しい顔になって頭を抱えていた。ままあることだ。癒されたキリウはそっと手を引っ込めて、コランダミーに小銭を渡した。

「キリウちゃん、もういいの?」

「うん。ありがと」

 しかしその手で再びチョキを作った時、ふとキリウは、夢の話をコランダミーにしてみることを思いついた。先程のカニの言い訳をしたかったのはもちろんだが、天使の啓示を受けることで意識の虚無から脱するきっかけが掴めるかもしれないからだ。見切り発進で口を開く。

「あのさ」

 しかしふいに頭上から射した影に、キリウは空を見た。そして続きの言葉を失った。

 どこからともなく、大きな赤い玉がゆっくり降りてきていたからだ。

 音もなくそれが近づいてくるにつれ、足元の影だけが広がっていった。白い虫たちがざわめくのをキリウは感じていた。ポッケに隠していたインコが飛び出して逃げて行った。コランダミー? コランダミーが見つからない。さっきまで話していたはずなのに。

「夢?」

 そう呟いたキリウは何故かちょっと笑っていた。

 やがて五階建てのビルのアンテナをへし折りながら玉は静止したが、一度瞬きする間に少し膨らんだようにも見えた。次の瞬間、ぴんと張っていた皮にバックリと亀裂が入り、周囲に酸っぱい汁を飛び散らかした。さらに広がった亀裂の隙間からゲル状の中身が顔を出す。もったいつけるようにこぼれ落ちる――ゼリーまみれの種子のひとつが地面に叩きつけられ、異常なまでの青臭さを放ち始める。

 キリウは……キリウは影の縁に向かって走った。このエサを垂らしている奴の顔を見るために。