稼働当初の『阿***R』はひどく有情な評価ロジックを持っていて、時に閻魔が承認した罪をも覆すかのような挙動を見せることがあり、そのためプラス評価の機能自体が早々にオミットされた。以後『阿***R』は魂に与える苦痛のみを最適化し、現在に至るまで、亡者たち個々のバックグラウンドを隅々まで考慮した刑場の割り当ての完全自動化は幻となっている。
* * *
石臼地獄のそばには大きな血の池があった。それは現在、広域バリアが壊れて先の大雨が流れ込んだ影響で異常高温と不規則な爆発を繰り返しており、石臼地獄を事実上の閉鎖へと追い込んでいた。
血の池は、炎が吹き出す荒野や溶岩溜まりと同じくらい地獄によく見られる地形だ。その一部は刑場として亡者たちを沈める等の運用をされているが、実際のところ、ほとんどの血の池は地獄のものの再生に利用されるリソースをプールする役割のみを果たしていた。亡者たちが何億回死んでも生き返るのは、エーテルを媒体として地獄の血脈を通じて血の池から血肉を補うことができるからだ。
それらが持つ毒々しいまでの赤色は、正確には獣の血の赤色によるものではなかったが、しかし罰する者も罰される者も九割九分は赤い血の記憶を持っている地獄において、それらが血の池と呼ばれるようになったのは自然な流れだった。そして血の池が赤いこと自体は、どちらかといえば雨が赤いこと――地獄を満たすエーテルが持つ赤色の映り込み――と由来を共にしていたが、そんなことはどうでもいい。
赤い霧雨の向こう、鈍い地響きとともに、少し離れたところで血の池が激しく噴き上がる気配がした。今日、獄卒キリウと基地嶋がこの刑場を訪れて三度目の爆発だった。池の周囲に無造作に転がされて見える石塊は、ぐらぐらと沸き立つ高エネルギーの液体に叩き壊されて原形をとどめなくなった石臼たちだった。
平時の石臼地獄は、巨大な石臼をまわして日がな一日じゅう十把一絡げに亡者たちを挽き潰し、まだ悲鳴が残っていそうに痛ましい血肉の滓を休むことなく血の池に蹴り込み続けているものだ。地面は常に雨の後と見まごうほどに血まみれで、亡者たちの血でひどくぬかるんでいた。時々はそれに足をとられた間抜けな鬼の血をも粉砕してきたこの場所は、今は雨の中で赤い稲妻を伴って鈍く輝いて見え、何物をも拒絶していた。
地獄の地形というのは、雨が降るようになる以前は変化を前提に作られていなかったのだろうとキリウは思っていた。生物の身体の基本構造がその生涯のあいだに変わることが無いように。
* * *
事実上の閉鎖状態であることを信じるならば、石臼地獄は稼働していないはずだった。しかしキリウと基地嶋が薄暗い詰所に立ち寄った時、そこには一匹の獄卒の影が佇んでいた。
キリウは、その半透明の獄卒が心身の調子を崩していることを経験から一目で察した。なので踵を返そうとした基地嶋を引き留めて、なんでもないふりをして室内へと進み出た。
外は雨足を増していた。長い散歩で消耗していることを抜きにしても、雨風を防げる場所にいられるのならばいるべき状況だった。
キリウの予想に違わず、その獄卒はふたりが自販機で買い物を始めても何も見えていないかのようで、ただじっと窓際の丸椅子に腰掛けたまま動かなかった。キリウは、自分が教えた通りに基地嶋がキリウの腕の個人用端末を自販機のセンサーに翳しているさまだけを見ていた。そして甲高く響く落下音を伴って瓶入りの水が取り出し口から現れた時、それを取ろうと屈んだ基地嶋の背中に、キリウは予告なく手のひらを押し付けた。
ガスマスクが転げ落ちそうなほどに飛び上がった基地嶋は、しかしこれも無言のままだった。かれは鬼の身体の限界の速さで瞬きを繰り返したあと、釈然としない顔になって、キリウの胸を瓶の底で突いた。キリウがへらりと笑って常温のそれを受け取ったあとも、かれはしばらく表情を変えなかった。
きっと、何も言わなければかれはこの詰所を出るまで同じ顔をしているのだろう。屈折した微かな光の下で、キリウは基地嶋の背中の感触が残る手のひらをちらと見た。子供の鬼にしても貧相すぎる基地嶋の薄い身体は、ただ壊れていないだけの骨を撫でたようキリウには感じられた。
「これ、ルール違反とかじゃ、ないんか」
意外なことに、この状況で先に口を開いたのはキリウではなく基地嶋だった。かれは背中を警戒しながら、先程と同じ方法で買ったミントキャンディの袋をキリウに渡してきた。キリウが訊き返さずにじっと見ていると、かれはおっかなびっくりといった様子で付け足した。
「いや……。ほかの鬼に、ものが買えていいんか? よわいやつがたかられないように、ポイントあげれないようになってるって、キリウ言ってたろ」
「俺の腕についてるから、俺が買ったんじゃん」
この時、はぐれ鬼の基地嶋が地獄のルールを気にしていることが無性に面白かったキリウは、わざと察しの悪い返事をした。そんなキリウを見る基地嶋の顔は冗談みたいに忌々しげだったが、冗談だと理解していたキリウは薄笑いのまま言い直した。
「俺が合意してれば平気。他のやつに無理やり買わされても、消費された時点で合意のたりないポイントがあると転生局のほうが怒るから、すぐ事務処から連絡きて話聞かれる。俺は無理やり買わされるよーな雑魚じゃないけど」
「そうなのか」
「でも昔は、買ったあと盗られたら手前の責任だった。でも今はそうじゃなくなったから、みんな飲み物とかのんびり宿舎に持って帰るんで、宿舎がゴミで散らかるのがやだ――」
あまり考えずに喋るせいで話が迷子になるキリウは、近頃は妙にそのことに自覚的になる瞬間があり、ふいに今も黙り込みかけた。しかし気づかなかったふりをした。
「――あとそれで、宿舎の失くしもの、なんか一瞬、俺のせいにされる流れができてるのもやだ」
「それはいやだな……」
基地嶋の苦笑は、明らかに話の内容そのものよりも脇道に逸れて管を巻く友達に向けられたものであったが、むしろキリウは安心した。
枝葉はさておきキリウが言ったことのわけは、鬼たちが仕事の対価に貰っているポイントが、元を辿れば転生局から地獄や天の国に分配されたものであることが関係していた。もともとポイントは転生局で操作できる人界の因果を最小単位に分割したもの(※便宜上の考え方。本当にそんな単純なら、大量のポイントを使った複雑な条件指定に難色を示されたりなどしない)で、当初から明確に、輪廻に貢献した鬼たちや天使たちへの報酬として発行されていた。そのためポイントの流れは全て転生局にトレースされており、公正でない取引が多ければ、問題視されるのは個々の魂ではなく地獄の統治そのものだった。そしてその積み重ねは、少なくとも前任の閻魔が更迭された一因となっていた。
こういったポイントの仕組みは、今となっては地獄で働いていて日常で知る機会はほとんど無かった。知っているのはそれが気になって調べた鬼か、あるいは目についた官本を端から読んでいるキリウのような暇な鬼くらいのものだろう。現在の地獄においてポイントは地獄データベース上の数字としてのみ存在し、通貨としての側面が肥大化しているきらいがあった。実際のところ、単なる通貨だと思っていたところで地獄で暮らしていくのに何も問題は無いのだった。いざ転生する時になって、多少ごたごたすることがあるというだけで。
理由もなく声を潜めて、キリウは笑い混じりに傍らの基地嶋に尋ねた。
「きちじま、ルール違反かもって思ったのに、俺が言った通りにやったの? 危ねーよ」
「おまえがやれっていったんだろ……」
「俺、意外と信用されてんだなって思った」
てっきりキリウは、からかわれた基地嶋がまた怒るのではないかと思っていた。なんならそろそろ本当に叱られるのではないかと心のどこかで思っていた。しかし基地嶋が見せた反応は、先の虫地獄に続き、キリウにとって少し意外なものだった。
「それは、そうだな」
失笑した素振りで俯いた基地嶋は、おそらく足元の闇を見ているわけでも、キリウが手に持ったままのミントキャンディを見ているわけでもなかった。基地嶋が購入した水の瓶を慣れない手つきで開封する少しの間、キリウはなぜ基地嶋がキリウを赦すのかについて考えていたが、疲れて頭が動かないのでやめてしまった。
このとき、唐突に背後から声がした。
「◯◯◯◯は」
ほとんど意識の外になっていた窓際の獄卒が、いつの間にかふたりの斜め後ろにいた。
それは先程までの半透明が嘘のように、薄暗い詰所の暗い足元にもっと暗い影を落として佇んでいた。基地嶋のガスマスクの向こうと同じ闇の色だ。当の基地嶋はすっと口をつぐんで影よりも気配を消しており、それが見事なほどでキリウは感心した。
はめ殺しの大きな窓を遠くに背負った彼の表情は、暗く濁った赤い光に阻まれて見えなかった。光にも闇にも強い鬼の目にそれが見えないことは不可解で、しかしややあることでもあったため、キリウはもっと近付いて覗き込みたいとは思わなかった。そこにはただ、地獄の風ですり減った鬼がいるだけだった。
「◯れ、◯◯◯?」
彼がそう言った。キリウは誰かに目の上を指さされたような気がした。いや、目の前の彼がキリウの目の上を指さしていた。そこには虫地獄で虫たちの中を走り回ったとき、虫に噛み切られてついた傷があった。
鬼はいつも傷だらけだが、怪我をしてもすぐに治るものだ。しかし今は寝不足のせいか、キリウのそれは治りきっていなかった。そこに触れたキリウの指先は、電波地獄を出た時よりも多少は爪の噛み跡がマシになっていたが。
「あんたこそ……」
開いた指の影でさりげなく視線を遮って、キリウは正面の獄卒の潰れた左腕を見た。
先程までろくに見えていなかったそのあたりが、今はある程度はっきりとした輪郭を持って見えていた。どうやら彼の腕は、石臼で挽き潰されてずたずたになってしまっていたようだった。それらの傷は少なくともキリウの目元のものよりも古く、深かったが、黒ずんだ血が不思議といつまでも滲み続けていた。
青ざめた肌だ。そもそも、エネルギー体であるはずの鬼の身体に血が流れているのはおかしなものだ。ふたたびキリウが彼の顔を見ようとすると、そこには、どこにでもいそうな青鬼の姿がうっすらと浮かび上がっていた。
「治らな◯ね。労災だ◯」
濁った青色の瞳が、今度は幾分か芯のある声でそう言った。基地嶋にも聴き取れたとみえ、キリウから二歩離れたままの細い肩がぴくんと動いた。その青鬼は、明らかに弱って再生力を失っていた。今の彼はとてもL4で亡者を苛む凶暴な鬼には見えず、ほとんどただの人間のようだった。
時に気まぐれなエーテルの嵐に晒され続ける過酷な下層の獄卒は、時が経つにつれ見るもおぞましい姿に変貌していくのが常だ。キリウも下層の刑場にいた頃はそうだった。鬼が鬼である限り誰もがそうなるし、そうでなくなった鬼にはおそらく何も残っていないのだろう。必ずしも見た目に変化が出なくとも、魂の器が人でも畜生でもない何かに変貌しつつあることが分かるのだ。それは他者からそう見える以上に当事者にははっきりと感じられる変調で、長く続けていると『戻れなくなる』と言われている。曖昧なことが多い地獄において、L6以下の刑場で働き続けられる期間には明確な上限が設けられており、次回の同様の配属までにはインターバルが必要であるというルールが珍しく明文化されているのはそのためだった。
けれどその、足が地から離れる感覚には奇妙な解放感があって、少しくらい痛くても忘れられないのだとキリウは思っていた。
「キリウ君、だよね」
知らない他の鬼の口からはっきりと自分の名前が出てきたのを聴いて、キリウは自分の口角が引き攣ったのを感じた。誰かに名前を覚えられていることは、キリウにとって本当のところ、遠い昔になくした感情の端っこをガラスの葉で引っかかれるような危うさを覚えるものだった。基地嶋の微かに冷やかしのこもった視線を感じながら、キリウはできるだけなんでもないように返事をした。
「何か用?」
「自分に、同じくらいの子供がいた気がしてね」
彼の唐突なそれがおそらく生前の記憶であることをキリウは察した。弱りきっていて生前のことを言い出し始める鬼というのは、自分が鬼であることを忘れかけていることが多い。キリウはどう対応したものか慎重になった。
「なんか、すごい具合悪そうだね」
「少し鬱気味で◯。寝ても傷が治りや◯◯い」
そんなのは見ればわかるが、べつにわけを訊きたいわけではなかったキリウは口に出さなかった。代わりに、興味が無いなりに尋ねた。
「これからどうするの?」
少しの間のあと、青鬼がぼそりと答えた。
「全部が面倒臭くなってしまった。自分が何になり◯かったのかも忘れてしまった。雨が上がったら、転生局に行こうと思ってる」
それは即ち、彼は転生するということだ。
できるならばの話だが。
「管理鬼に言った? いきなし行ったら怒られるかも」
「何度も言った」
この短い会話の中で、唯一食い気味に答えた青鬼のその言葉にはだいぶ含みがあった。(それにしても何になりたいのか忘れてしまっただなんて、彼も定期アンケートを出し忘れる質なのだろうかなどと、キリウは珍しく自分事のように思っていた。)
音もなく歩み寄ってきた彼は飛び退くように道をあけたキリウに目もくれず、傷だらけの個人用端末を自販機に押し当てて小粒のリコリスキャンディを一袋購入していた。賽の河原で栽培される地獄リコリスの根は、もっぱらこの黒いお菓子を作るために使われる。甘味と同じくらいの苦味と塩味を帯びたそれは、魂の形を忘れかけた獄卒たちの幻肢痛によく効いた。
地獄でキャンディを手に取る獄卒たちを見るたびに、キリウには今でも思い出す出来事がある……。その話をできるのは二話か三話くらい先かもしれないが。
「君は、なりたいものはあるか?」
ふいにかけられた質問に、キリウは反射で答えた。
「転生したくないです」
もっともキリウは、自分のそれが答えになっていないことを解っている。ただ、他に答えを持っていないのだ。
そもそもの話、キリウの顔と名前を知っているならキリウが転生したくないことも知らないわけがないのに、そんなことを今更訊いてくるのは意地悪ではないかとキリウは勘繰ったが、自意識過剰に見えるのでやめた。青鬼はその反応を分かっていたかのように微笑んだ。そしてキリウの頭に未開封のリコリスキャンディの袋を乗せてこう言った。
「余ったからあげるよ」
この時キリウは、自分こそ余ったポイントを彼にあげられたらよいのにと思った。それならば、なりたいものを失った彼にも、雨が上がることを怖がらなくて済む程度の慰めを与えられるのにと思った。けれどそんなことはできないし、できないことを言うべきではないので、口下手のキリウには彼にかける言葉が見つからなかった。
いや、一つだけ見つかった。
「ありがとう」
キリウのつっかえるようなそれを聞くよりも早く、青鬼は踵を返して歩き出していた。半透明の彼は何も言わず、立ち止まることもなく部屋を出て、やがてエアロックの扉の重い音の向こうへと消えていった。
降りしきる雨以外の全てが静止したような部屋の中で、最初に動いたのは基地嶋だった。あるいはキリウの頭から滑り落ちたリコリスキャンディの袋だった。それをキャッチした基地嶋は、殺しすぎた息で土気色になった顔のまま、ぼんやりしているキリウの胸にミントキャンディの袋とともに強かにそれを押し付けた。
白いミントキャンディと対比するように真っ黒な粒たちは、透き通った包装紙の内側で、ちょっとした異形のふりをしているのかもしれなかった。