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12.虫地獄1

 それにしてもいつになく嫌な感じのする目眩と頭痛に襲われ、眼球が飛び出しそうになっていたのがようやくましになってきて、キリウはほっとしていた。鬼というのは大抵そんな顔をしているものだが、地獄暮らしも長いのに今さら階層間エレベーターで酔うだなんて格好がつかない、とキリウは密かに焦っていた。

 こんな辺鄙なところでいったい誰に対して格好をつけるのかだなんて、そんなことはどうでもいい。無駄に面子を気にするのもまた鬼にはありがちなことだった。そうでなければ地獄は今よりずっと――どうしようもない場所になっていただろう。

 もっともキリウは、唯一信頼できる友達にすら絶対に弱みを見せたくないと意地を張るほど強情な鬼でもなかった。

「きちじま、元気?」

「キリウこそ、目ん玉とびだしそうな顔してるぜ」

 となりの基地嶋が無感動にそう言うので、キリウは明後日の方を向いて肩をすくめた。かれは錆びついたコンテナの陰からずっと辺りを見張って、時折激しくなる砂嵐をバリア傘で遮りながら、キリウの回復を言葉少なに待ってくれていた。

 立ち上がって尻の砂を払ったキリウの気配を察して、かれが小声で尋ねてきた。

「もういいのか?」

「ぜんぜん平気」

「そうか」

 頷きながらも、なぜかコンテナの向こうから視線を外そうとしない基地嶋を訝しんで、キリウはかれの横に立ち同じ方向を見た。

「基地嶋、何見てるんだ?」

 無言のかれが細い指で示した先にあったのは、階層間エレベーターへと続く道と、その半ばに佇んでいる三匹の鳥鬼の姿だった。

 鳥鬼は鳥の鬼だ。彼らは一見すると鶏をのばして人型にしたような風貌をしており、鋭く尖った趾や羽に覆われた腕は確かに鳥の特徴を持っていた。しかしその顔面には、鳥が本来持ち得ないひとつきりの真っ暗な眼孔が縦に開いているのみだった。目蓋がなく開きっぱなしで、光を吸い込んで外に出さないその虚ろは、そこから真っ二つに割れて中から何かが出てくるのではないかとキリウはいつも思っていた。

「鳥鬼だよ」

「あれ、鳥なんか……?」

「トサカがあるじゃん」

 鳥とは到底思えぬものを鳥だといわれた基地嶋の不安は、キリウには部分的にわからないところがあった。とはいえ少なくとも友達が不安に思ったことを察したキリウは、かれの気分を和ませようと、つい情報源のまったく不確かな噂話を口走っていた。

「基地嶋、知ってる? 鳥鬼って、牛鬼にも馬鬼にもなりたくなかった魂が、消去法でなるらしいぜ」

 それはきっとキリウ自身があまり好く思わない類の鬼たちと同じように。

「キリウ、デタラメなこと言ってないか?」

 この時、基地嶋はエレベーター酔いが残るキリウの口調を心配してそう尋ねただけだったが、デタラメを言った自覚のあったキリウは少々ぎょっとした。

 おそらくキリウは、仮にいくらキリウ自身が信憑性を確信して情報を口にしていたのだとしても、他の鬼たちからすれば等しくエーテルの呻り声にまぎれた噂話だとしか認識されないことには、真に気づいてはいなかった。

 

  *  *  *

 

 矮小なものに寄ってたかって嬲り殺されるという『虫地獄』の当初のコンセプトは、他の多くの刑場と同様に、鬼手不足に伴う責苦の効率化の波の中で急速に形骸化していった。虫たちの改良方針について、霊的な嫌悪を煽るおぞましいデザインを追求するよりも、羽音をさらに五月蝿く不快にするよりも、単に身体を大きくして顎や針を鋭くすれば亡者たちに与える苦痛を最大化できることは明白だった。

 そうして先鋭化しすぎた虫地獄はある時二つに分けられ、片方はもともとのL4に『虫地獄1』として、もう片方はより下層のL6に『虫地獄2』として再配置される運びとなった。特に過剰な改良を重ねられた虫たちが軒並み下層へと送られたためか、今ではここ上層の虫地獄は、それなりに昔ながらの姿を取り戻していると言えた。

 そのはずだが、まだ不必要に虫の数が多すぎるように見え、辺りを眺めながらキリウは苦笑していた。

「これ、真ん中のほうはどうなってるんだ……」

 行く手を阻む虫の嵐を眼前に、ぼそりとつぶやいた基地嶋の肩はいつになく縮こまっていた。

 地獄の黒い太陽が真上にあるにも関わらず、辺りはひっきりなしに飛び交う無数の虫たちが落とす影でひどく薄暗かった。かろうじて展開したバリアの内側から見えるのは、空間じゅうを満たさんばかりの虫の嵐以外になく、それもどうやら虫地獄の中心部へ向かうほど密度を増していた。

 バリアを張っていると分かってはいても、基地嶋は真っ赤な傘に身を隠さずにはいられない様子だった。本来は雨用のバリアであるそれは、幸い横殴りの虫たちを通さず全て弾き返してくれていた。しかし雨天時に肝心の足元を濡らしがちな前例通り、灰色の砂に潜り込んだ虫たちの一部はたびたびバリアの内側に入ってくるのだった。

 基地嶋が時折立ち止まっては足元の虫たちを入念に踏み潰すのを七セットほど繰り返したあと、キリウは尋ねた。

「きちじま、虫苦手?」

「これだけいたら、得意とか苦手とかいうはなしじゃねえだろ」

 それはつまるところ苦手なのか苦手じゃないのか、とキリウはつい訊き返しそうになったが、ただでさえ顔が土気色になっている友達にわざわざ自分の察しが悪いことを伝えてまでストレスを与えたくはないと思いやめておいた。

 基地嶋の足踏みを待っている間、ふとキリウは来た道を振り返り、先ほどすれ違った若い亡者の魂を気配をその場から探した。

 そいつは元いた地点ですぐに見つかった。地に伏して死を待つばかりに見えたそいつの魂は、案の定まだ死に至らず、今は気が触れたようにがくがくと振動していた。もう少し詳しく探ると、そいつの身体の内側を這い回る無数の虫の感触が伝わってきて、キリウは驚いて電界を引っ込めた。

 虫地獄1のオペレーションは、穴を閉じられないよう器具を嵌めた亡者たちの四肢を拘束して、虫の群れに放り込むというだけの簡単なものだった。キリウは虫地獄と縁が無かったが、虫がたくさんいて楽しいし作業も簡単だしで、羨ましい刑場だと長らく思っていたものだ。こういった生ものを利用した刑場は多く、キリウも化けカラスたちに亡者の内臓を啄ませる刑場の仕事は大好きだった。

 しかし先程ここの見張りをしてる獄卒と会って話した限りでは、虫というのは躾ができないからこれはこれで大変なのだそうだ。何より亡者に嫌悪を催させるべく『心の中にいたら耐えられない』程度を基準にデザインされた虫たちは、鬼から見てもいくらかは同様に不愉快であるため、適性の無い者が配属されると文字通りの地獄なのだと言う。

 その獄卒も虫があまり好きではない様子だった。近道だからここを通ってよいかとキリウが尋ねると、彼は渋い顔をしたまま二つ返事で許可してくれた。ただしこう付け加えてもいた。「近頃は虫たちの気が立っているせいか、たまに行方不明になる獄卒がいるから気をつけろ」と。

 手持ち無沙汰にバリアの外に腕を出して遊んでいるキリウを、いつの間にか逆に基地嶋が待っていた。

 このバリアに虫が張り付いて内側から虫の腹が見えてしまわないことは、基地嶋の精神衛生の保全に役立っていた。直に触れたら痛いはずのバリアにキリウが平気で触れていることについては、かれは見慣れたのか特に言及してこなかった。それでもキリウがバリアの内側に腕を引っ込める直前、無言で一匹の虫を握り込んだことは見咎めたようで、裏返りかけの声が上がった。

「おいおい……おい……っ」

 キリウがぱっと手を開いて見せると、かれは弾かれたように肩をすくめて片腕で顔を覆った。

 手の中のそれが飛び立ったと同時に、キリウは返す刀で再びそれを捕らえて悪童らしく笑った。キリウの手の中にいたのは、セミに似ているがセミが持ち得ぬ大仰な顎を備えた、名前の無い虫だった。

 肉体的な苦痛のみに傾倒しない、かつての姿を取り戻したはずの虫地獄だったが、今のところあらゆる姿形をしたこの虫たちから顎・針・鎌などが奪われることはなかった。彼らは生まれつきの武器で亡者たちの皮膚を引き裂き、その隙間から入り込んで更に真皮を食い荒らし、あっという間に血まみれの肉塊にできるだけの力を今も変わらず持っていた。

「こいつ、かっこいいだろ」

「しらん!」

 基地嶋はめずらしく、いや当然憤慨して、キリウを跳ね除けるようにぷいっと顔を反らした。しかし辺りにあるのはバリアにばちばち当たってその身を傷つける虫たちばかりで、キリウよりましな景色はひとつも無く、すぐに圧に屈してかれはため息をついたのだった。

「おれとキリウが亡者になってこの地獄に落ちても、つらさが違いそうだな」

「こんだけいたら、得意とか苦手とかいう話じゃないだろ?」

「あぁ」

 先ほど自分が言ったことをそのまま繰り返され、まぎれもなく面倒くさそうに頷いたかれは、ガスマスクの向こうで特有の薄笑いを浮かべていた。それほど怒ってはいないし、深く考えてもいない時のかれがする表情だ。

 とはいえ今の基地嶋の言葉は本質的だった。ほどなくしてキリウは、くだらない悪戯と脊髄反射の言葉遊びで話の腰を折ったことを後悔した。

 現在の閻魔の体制になって以来、複数回の切り替え作業を経て地獄の基幹システムが刷新されたことは、当局の刊行物に目を通している一部の鬼たちの間ではよく知られていた。その置き換えられた新しいモジュールのひとつが、亡者に対する刑場の割り当てシステム『阿***R(アスター)』だった。

 地獄には時に罪の数よりも多くの刑場が存在し、廃止されても性懲りもなく新しい刑場が生えてくるのは、刺激を求める現場の鬼たちにつつかれたデザイナーが張り切っているからだと言われている。うろ覚えのキリウがざっと思い出しただけでも、同じ罪に対応する刑場が二つも三つもあるように感じられるのは錯覚ではなかった。例えば盗みを働いた者が落ちる刑場は、今の地獄に二十六個以上あった。それは盗みの性質の違いにより落とし分けられるのだと古い知識で説く鬼もいるが、実際には罪だけでなく、亡者たちの個々の性格をも鑑みて最も責苦が効果的となる刑場へと振り分けられていた。

 その振り分け作業を司っているシステムこそが『阿***R』なのだ。多様な刑場を有効活用できる『阿***R』の機構は、鬼が足りず刑場ばかりが増えた現在の地獄の姿を肯定する数少ないモノでもあった。

 それでもなお割り当てが決まらなかった時のために、苦痛そのもののエッセンスを魂に投与して強制的に刑期を消費させる『裏刑場』が存在する――とかいう噂話は、枝葉を変えて『阿***R』を知らない鬼たちの間にまで広まり、すでに原型を留めていなかったが。

 キリウは、はぐれ鬼の基地嶋に『阿***R』の話をどこまでしてよいか考えていた。キリウはまだ手の中に虫を握っている。これが生殺与奪だ。この虫は誰も害せないよう握り込まれ、もはや時折カリカリとキリウの手のひらを引っ掻くだけになっている。その弱々しい感触に鬼の本能を刺激され、キリウはにわかに気を取り直して、先程の話の続きをしようと基地嶋のそばに寄った。

「心配するなよ、きちじま。ちゃんと魂は診断されて、つらくない刑場には送られないようになってんだよ」

「真性のマゾの亡者がきたらどうするんだよ」

 真面目に話をしようとしたことを忘れたわけではないのに、基地嶋から放たれた無表情のそれが耳に入った瞬間、キリウはぷはっと噴き出してしまった。

 それからしばらく、キリウはろくに返事もできずに歩きながら笑い続けていた。寝不足のキリウは、面白いことを見聞きするとどうしても笑いを堪えられない。きっと、誰かのプライドや自分の生殺与奪が賭かった場面でも同じように笑ってしまうのだろう。

 何が面白いのか、何がよくなかったのか、何が自分をそうさせるのか。なぜここにいるのか。どこへ行くのか。どうなるのか。

 急に何もわからなくなって、頭の中が空っぽになったキリウが横を向いた時、不思議なことに基地嶋は落ち着いた微笑を浮かべてキリウを見ていた。それは単にかれが笑い上戸のキリウを見慣れてきたのか、あるいは呆れ果てて顔が自然と笑っているだけなのか。びっくりして黙ったキリウをよそに、かれは微笑んだまま軽く溜息をついて言った。

「そんなおもしろいか?」

 常にガスマスクを着用している基地嶋の表情を正確に読み取ることは難しい。かれとの付き合いが長くなってきたキリウも、ほとんどの場合は口調と佇まいから予想しているだけにすぎなかった。だというのに、今これだけははっきりとかれの微笑を感じ取れたのだから不思議なものだった。

 気が動転したキリウは、真っ白な頭の中にふと浮かんできた言葉をそのまま口にしていた

「基地嶋、知ってる? サドの鬼っていないらしいよ」

「キリウ、やっぱヘンだぞ。ここ抜けたら、もうすこし休もうぜ」

 キリウが言ったそれは――今度は少なくとも事実だった。身食い地獄の先輩も言っていたし、何より鬼の適性検査の項目にそれがあるのをキリウは自分の目で見たことがあった。けれど基地嶋には、これもまたデタラメだと思われてしまったようだ。

 釈明しようと、いやそれよりも基地嶋に何かを謝ろうとキリウが開きかけた口は、しかし突然上がったかれの声によって中断された。

「あっ!」

 この時また足元の虫たちを払おうとしていた基地嶋は、砂に埋もれた亡者の身体らしきものを発見していた。びっしりと蛆が集り、ぐずぐずになった赤紫色のそれらは、胴体からはずれた女の四肢だった。かれがそのことを認識した直後、その一部であるやたらと肉付きの良いふくらはぎを、そばを歩いていたキリウがそうと知らずむんずと踏みつけていた。

 踏みつけられた肉が骨ごとぺしゃんこに潰れたのと、潰れてもなお厚みのある肉にキリウが足を取られたのとはほとんど同時だった。バランスを崩して虫の嵐の中によろけ出たキリウを追って、基地嶋が慌てた様子で叫んだ。

「おい……!」

 キリウをバリアの内側に引き入れようとした基地嶋の手は、なぜかキリウが更に一歩外へ動いたことで宙を掻いた。

 バリアの性能と関係なく、つい傘を差し出してしまうのは、その道具の形状からくる習慣的な仕草だろう。傘を掲げたまま、ふらふらと黒い渦に迷い込んでいくキリウを見つめる基地嶋のぽかんとした顔は、すぐに何か信じがたいものを見ているように渋くなっていった。

 そのままキリウは両腕を広げて、全身にぶつかってくる虫たちを夕立のように浴びながら行く宛もなく走り出した。理由はわからない。やりたいからやったわけですらなかった。

 そしてひととおり辺りを駆け回ったあと、戻ってきたキリウは、自分が正気を失ったわけではないことを友達に一生懸命説明しなければならなかった。幸い良き友であるかれは虫まみれのキリウをバリアに入れてはくれなかったが、最低限の理解を示してくれた。