11.修羅少女の思い出
女の魂を持った鬼は少ない。あるいは女の鬼の多くは、変わり果てた姿になろうとも現世を彷徨っているのだと言われている。地獄に堕ちて来世を変えるよりも、現世でやり残したことは現世で成し遂げようとする、そういった気性があるのだろうと吹聴する噂好きはしばしばいた。
特に少女の鬼となると殊更少なく、地獄での仕事が長いキリウでもこれまでに片手で数えるほどしか見たことがなかった。ここまで少ないと、著しく適性が低いなどの理由で弾かれているのではないかとキリウは想像していたが、やはり真相は定かでなかった。
ともかく、そんな数少ない少女の鬼のひとりがユコだった。電波地獄がつくられてしばらくの頃、少女の形をした魂が獄卒として連れてこられた。それがユコだった。
今にして思えば彼女はもともと人間ではなかったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。彼女は、彼女のことを興味本位で知りたがる鬼たちを邪険にはしなかった。他者に対する鬼の好奇心の半分が暴力性に由来していることを知っていたなら、彼女も自分のことを簡単に話したりはしなかったかもしれなかった。けれど転生について訊かれたとき、彼女はこう言った。
「私、来世は修羅になりたい。誰かを傷つけることしかできないから」
修羅の道は争いと怒りの世界だ。その実態は戦いに狂う霊界の軍団でもある。みずから願って飛び込んで行く場所ではないと、たまたま話が聞こえる位置にいたキリウを含めたその場の誰もが思っていた。
理解できないものが怖いのは獄卒も同じだった。それから皆、なんとなく彼女には近寄りがたくなってしまい、彼女もそれは仕方無いと思っていたようだった。中には彼女に心変わりを迫る者もいた――他の鬼に言うことを聞かせるのが気持ち良いのは鬼の普遍的な感情だ――が、彼女が驚くほどそっけなくするのですぐに離れていった。
誰かを傷つけている自覚を持ったこともない子供ばかりの電波地獄には、彼女の心の内を想像できる獄卒はいなかった。
何もわからないなりに、そこから暴力性抜きの単純な興味でもって彼女に近づいたのはキリウくらいのものだった。
理解できないものが怖いという心理を言葉にして地獄の子供たちに教えてくれたのは、当時いた面倒見の良い管理鬼のひとりだった。ならばなぜ「転生したくない」と言って憚らない異物のキリウは怖がってもらえないのだろう、彼女と自分とでは何が違うのだろう、そんな疑問がキリウをそうさせた。キリウは自分も彼女のように皆から放っておかれたかった。
シフトの空きが重なったとき、彼女がひとりになったところへ近づいてキリウが率直にそう尋ねると、彼女は心底びっくりしたようだった。二言三言交わした後、彼女はしばらく考え込んでぽつりと答えてくれた。
「あなたはまだ、何も選んでないと思われてるのかも」
なるほどね。
キリウは何かがわかったような気がした。
それからキリウと修羅志望の少女ユコとの交流は、彼女が無事に修羅に転生できるまでの間続いた。
彼女はキリウに対してはそれなりに好意的に接してくれた。他の誰に対しても本来はそうなのかもしれないし、あるいは獄卒たちの中で明らかに浮いているキリウに同情しただけかもしれないが、少なくとも嫌われたり厄介に思われたりしていないことは確からしく、それだけでキリウは安心できた。
「なんだか弟ができたみたい」
「俺が?」
「うん」
キリウと彼女とは表面上の勤務態度は真面目な者同士だったので、仕事の上で信頼し合えたことも幸運だった。獄卒は大雑把な者が多いのだ。
そして彼女を傍で見ている中でキリウは、いま彼女が賽の河原や地獄で亡者として苛まれていないことには相応の理由があるのだろうとこっそり思っていた。彼女は決して、ただ地獄に落ちなかっただけのならず者ではないようキリウの目には映った。彼女は彼女が言う通り他人を傷つけるのかもしれないが、それだけではないはずなのだ。はっきりと言葉にはできずとも、キリウはずっとそう思っていた。
キリウは彼女が修羅に転生できるよういつも応援していた。とはいえ、大っぴらにつるんだりすれば(主にキリウが)他の獄卒に突っつかれることは目に見えているので、周りに他の獄卒がいるところではキリウはあまり彼女に近寄らなかった。
その唯一の例外は、喧嘩をしている時だったはずだ。
喧嘩は地獄の子供たちの間ではポピュラーな遊びだった。それは喧嘩というよりは組手とか地稽古とかいう言葉が適切だったが、ほとんどの子供の獄卒は喧嘩以外の言葉を知らなかった。
キリウとユコも、空き時間にはときどき喧嘩していた。今にして思えば、いくら普段からつるんでいなくとも彼女とばかり喧嘩していた時点で何も忍んでいなかったが、そんなことはどうでもいい。
彼女は、そう、なぜか異様に喧嘩が強かった。キリウは喧嘩が弱い方だったが、それ以上に彼女の強さが段違いであることは一撃で理解した。喧嘩をする時の彼女は魂が逆立つほどの気迫をまとい、雷のように鋭く動くものだった。
理由を訊いても彼女は答えなかった。「忘れた」だって? 嘘だろう、とキリウは他人事のように思っていた。
そのうち彼女の異常な強さが子供たちの間に知れ渡ると、電波地獄はにわかに一触即発の状態に陥った。喧嘩は決して獄卒同士の上下関係を決めるものではなく、仮にそのような実態があれば連帯責任で全員がペナルティを被る羽目になるが、異端の修羅少女に既存の何かを破壊されてしまう恐怖がそこにはあった。
おまけに彼女も控えめな態度によらず好戦的なところがあり、絡まれるとそれなりに応じてしまうのだ。キリウが彼女について、彼女が言うところの誰かを傷つける片鱗を感じられたのは、その点くらいだったかもしれない。
もっとも、その危うさを面白がって彼女に放電をはじめとした身体の使い方や金棒術を教えて、さらなる武器を与えたキリウに何も言えた義理は無かったのだが。
しばらくぶりにシフトの空きが重なった日、ガキどもから絡まれるのに飽きたらしい彼女は、キリウと連れ立って火乗りで散歩に出かけた。
L1の暇な獄卒の散歩スポットといえば等活地獄だ。互いに殺し合いをさせられる亡者たちを岩山の上から眺める鬼たちは多く、規定を破って石や金属片を投げ込む者もしばしばいた。誰も他の鬼のことなど見ていない、そんな場所でキリウは無感動にぼやいた。
「ユコにポイントあげれたらいいのに。俺、いらないもん」
「それができたら、弱いものから奪う奴が出てくるからダメなんでしょ」
即答した彼女を見て、キリウは無言で顔に手を当てた。それから彼女は少し困ったように笑って、そっとした声でこぼした。
「できないことは言わない方がいいと思うよ」
キリウはただ、そうしたいほど彼女を好く思っているのだと伝えたかっただけなのに。
* * *
『オチはねえのかよ。のろけ?』
基地嶋のその反応に、ふたりきりの斜行エレベーターの上で、キリウはつい噴き出した。
「ぷははははは!! 鬼が!! のろけ!!」
『きこえねよ、テレパシしろ』
『ごめん、あんまり、おもしろ反応すぎて』
『(うめき声)』
キリウがあまりにも笑うので、リフトに放置されて久しい金網の束もがたがたと音を立てて、底の見えない虚ろを金属質の残響が跳ね回っていた。
地獄に色情は無いのだ。地獄の鬼に必要なのは残虐性と暴力性と幾ばくかの協調性だけなので、惚気などというあまりに人間じみた基地嶋の発想は、キリウにとってすこぶる新鮮に感じられた。一方の基地嶋は派手に笑われて腹を立てたのか、腕を組んでむすっとしていた。
『どうした、きちじま』
『女って』
基地嶋の言葉はごく短かった。テレパシーの出力や受信感度の問題ではなく、実際に基地嶋はそこで黙り込んだのだ。かれは何やらしばらく悩んだあと、気まずそうに腕をさすりながら首を横に振った。
『なんでもね』
『なんだよ』
逃げるものを追うのは鬼の普遍的な習性だ。軽い口調に反して本能的な殺気を帯びたキリウから、基地嶋は僅かに顔を背けた。
また長い沈黙があった。やがて凝視するキリウの前で、かれはどこか苦々しげに答えた。
『弱いから、苦手』
キリウは思わず、あからさまに驚いた顔になって訊き返した。
『基地嶋、俺の話聞いてた? あの子は強かったって言っただろ』
『狩られる側の存在』
たどたどしい基地嶋のテレパシーの真ん中で、その言葉は妙に冷たく、どこまでも空虚にキリウの魂を通り抜けていった。
寝不足を差し引いてもキリウは暫し放心していた。基地嶋の背後で口を開けているエレベーターの闇を同じくらい虚ろな目で見つめ続けながら、リフト上の灯りがちらついた瞬間、急に我に返って友達の名前を呼んだ。
『基地嶋?』
基地嶋はいつの間にかガスマスクを両手で押さえて俯いていた。その奥から微かに震える声がしていた。形を成さないテレパシーの揺らぎは、少々の時間を使ってようやく収束した。
『わるい。その子は、ちがったんだよな』
キリウは無言で頷いて、目の前の細い肩を強かに叩いた。
エレベーターはまだ潜っていくようだった。足元から昇り続ける轟音と底なしの気流とが、吹き飛ばされそうな二匹の鬼を煽っていた。上か下かも判らない、この世界の内側であるかすらも判らない彼方から、サイレンの音が聴こえた気がした。