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10.死の森

「ああ、詐欺師だったって話? きちじまの親父が」

 しとしととそぼ降る雨の向こうをぼんやり眺めながら、唐突にそう答えたキリウのとなりで、膝を抱えたままの基地嶋は黒い目をいつになく見開いたようだった。

 遠くで山が燃えていた。雨は嫌いだが赤い雨の中で煌々と燃え上がる地獄の炎を眺めるのは好きだ、とキリウは他人事のように思っていた。急な雨に降られて飛び込んだ真っ黒い木の下は思いのほか快適で、それほど大きな木ではないにもかかわらず、びっしりと繁った金属質の葉の下には一滴の雫も落ちてくる気配がなかった。

 基地嶋はぼんやりしたままのキリウをぱっと見て、しかしすぐ視線を前に、それから少し下へと戻した。そして小さなため息とともに、どこか安堵の混じった声を漏らした。

「わすれたわけじゃなかったのか」

 この時キリウが答えた質問は、血砂地獄で歯にものが挟まったように基地嶋が尋ねかけていたそれと同じだった。「おれ、やっぱり、前に言ったよな? 身内のこと」――放っておいたらかれはもう何度か同じことを訊いてきそうだったので、キリウは記憶から引っ張り出して答えたのだった。

「ごめん。わかんなかった、何訊かれたか」

「わりぃ」

 身内の汚点を挙げられながら妙に安心した素振りをしている基地嶋の神経がキリウには解らなかったが、ひとまずそれで友達が笑顔になってくれるなら、どうでもいいことだった。それからかれは一瞬考え込んだあと、わざとらしくキリウに突っかかってきた。

「おい。それじゃおまえ、おれが犯罪者の子供ってわかってて、アレを見せたんか」

「見たいと思って」

「鬼かよ……。いや、鬼か」

 へにゃりと膝に顔を伏せた基地嶋は、それでもやはりどこかへらへらしているようキリウには見えた。

 キリウは、少し前に興味本位で雨の中に置いていた空き瓶を一瞥した。この層のどこかの自販機で買って、雨宿りのあいだに飲み干したそれは、底に水が溜まるどころかどろりと半分溶けて形を失っていた。

 この時キリウは、現世で罪人であることと死後に地獄へ落ちることとに直接の関係は無いのだと基地嶋を諭したくなったが、細かいことをいちいち気にする奴だと思われたくなかったのでやめた。

「なに笑ってんだ……」

 となりで柔らかくなっている基地嶋からそう言われて、キリウは自分もかれと同じくらい締まりのない顔をしていたことに薄々気づいていた。そして頭に浮かんだ言葉をそのまま答えた。

「雨の中なのに燃えてる」

 先ほどからキリウが何も考えていない時に特有の返事を繰り返していることを察した基地嶋は、ふはっと失笑した。

「キリウ、地獄何年目だよ……」

「炎が無い。電波地獄には」

「あぁ」

「燃えてるなぁって」

「眠いんか?」

 キリウは取り留めのないことしか言わない口を閉じて、首を横に振った。

 とはいえこうも頭がぼんやりするのは、しばらく睡眠槽で寝ていないせいだろう。鬼、とくに身体を酷使し大勢の亡者と触れ合う獄卒は、怪我が無くとも定期的に睡眠槽に入らなければおかしくなると言われている。キリウも普段は宿舎の睡眠槽で眠っているが、この調査業務に出てからは野外でしか眠っていなかった。

 もっとも外出を伴う作業ではこのようなことはしばしばあるもので、しかしこの調子がL8まで続くとなると、肝心の仕事がまともにできるのかが疑わしいようキリウには思えた。実際のところ、L8での調査を終えても更にL1へ戻るまでの道程も控えており、分かっていたことではあるが、本当はどうするのが正解なのだろうと今更ながらキリウは首を傾げた。

 ひとまず、次に詰所を見かけたらミントキャンディを買おうとキリウは思った。鬼は地獄のもの(地形や機材を除く)を身体に取り込むことで、睡眠槽に入らなくとも部分的な補給を行える。べつに道すがら亡者を一匹二匹齧って血を啜ってもキリウは構わなかったが、友達の前でそれは躊躇われた。

 するとその時、雨の中から勢いよく、小さなものが木陰に飛び込んできたようだった。

 それは背中に炎をまとった小型の獣だった。キリウが衝動的に飛び掛かって捕まえると、モサモサしたそいつは、キリウの腕の中でしましま模様の尻尾を振り回して暴れていた。

「タヌキだっ」

「アライグマだろ」

 どちらかといえば急に動いたキリウにびっくりした様子で、基地嶋が訂正した。

 この獣は鬼でも亡者でもない、地獄の従属物のひとつだった。地獄にいる獣についてそれ以上の認識が無かったキリウは、何も答えずに、むんずと両手で掴んだそいつを基地嶋に突き出した。目の前にアライグマを出された基地嶋は戸惑いつつも、そろりと手を伸ばして、その身体に炎をまとっていない部分を探そうとする。しかしもがき続けていたそいつがとうとう激しく全身を燃え上がらせたのを見て、諦めたように手を引っ込めた。

「ゆっくりしてないやつだな……」

 肩をすくめた基地嶋の前で、アライグマは蛇よりものたうちながら、地面に臓物のかけらのようなものを吐き出し始めた。

 それからしばらくキリウはアライグマをかまっていたが、アライグマはまったく慣れることなくずっと嘔吐を繰り返していた。地獄の獣であるからには、腹の中から出てくるのはどこかの刑場で齧った亡者たちの一部だろう。亡者は死んでも刑期が残っている限りは再生するが、再生するとき使われるリソースは本人のものである必要は無く、地獄の全体で利用可能になったものが順次使用されていくだけだ。

「そいつ、もしかして、雨のせいでよわってるんか」

 こぼれた基地嶋の論に、アライグマに与えられそうなものを持っていなかったキリウは自分の血を与えてみようとしたが、こんなところで消耗すべきではないと基地嶋が慌てて止めるのでやめた。

 やがて雨足がほとんど弱まってきたあと、ふたりは陰を抜け出て歩き出した。

 

  *  *  *

 

 地獄の水捌けが悪いのは、どこもかしこも亡者の血を吸い尽くしているからだと冗談じみて語られることがある。しかし山地のくぼみに雨が溜まると、赤い雨がまとうエネルギーで地形が崩れて一気に流れ出すことがあった。そういった鉄砲水はエネルギーの奔流そのもので、巻き込まれれば鬼だろうと無事では済まない破壊力があり、キリウもその被害は何度か目の当たりにしてきていた。

 キリウが基地嶋と出会った日もそうだったのだ。当時は地獄に雨が降るようになってまだ日が浅く、雨のたびに上から下まで馬鹿騒ぎしていた。その頃、電波地獄のそばに鉄砲水が直撃して壊滅した刑場があり、救助や片付けのためにキリウを含む多くの鬼たちが駆り出された。その出来事は今日まで続く「辺境に作られた新しい刑場は往々にして立地が悪い」という噂の根拠のひとつとなっていたが、そんなことはどうでもいい。

 あのとき、鬼も亡者も一緒くたに飛び散らかされた凄惨な現場から、錯乱した様子で走り去っていったひとりの少年がいた。

 それが基地嶋だった。電波地獄の獄卒(ガキ)のどれかだと思われて見過ごされたそいつがはぐれ鬼だったことを知る者は、キリウの他にいない。

 いや、正確にはかれの仲間のはぐれ鬼たちは知っているのだろうけれど、それは非はぐれ鬼の与り知ることではなかった。キリウは、キリウと一緒にいない時の基地嶋を知らない。ただかれの話を聞く限り、孤独ではないようだった。そして孤独ではないのにキリウと行動を共にしてくれる、そんなかれにキリウは友情を感じていた。

「雨がやむまで待ってよかったな……」

 すり足をしながら小声で呟いた基地嶋を見て、キリウは無言で頷いた。

 この一帯は岩肌の露出した地形になっており、濡れていると足元が滑りやすいうえ、奈落が目の前に見えているかのような崖が延々と切り立っていた。投身自殺した亡者を繰り返し突き落し続ける刑場がすぐ近くにあるからそうなのか、あるいは逆で、崖を見てそのような刑場をデザインした鬼がいたのか。どちらにせよ、その底がぞっとするほど平らで硬くてざらざらしていることを知ってるキリウは、友達が滑り落ちないようかれの腕をきつく掴むばかりだった。

 流体コンパスの指し示す方角だけを頼りに歩いてきたのはよくなかったかも、とキリウはいくらか切実に思っていた。キリウはこの刑場と立地のことを知らなかったわけではないが、雨のときの表情を知らなかった。それはここだけでなく、キリウだけでもなく、今の地獄を彷徨おうと試みるすべての存在にとって平等にそうだと言えた。

 そうして崖から遠ざかってゆけば、今度はいつの間にか黒い森の中に入り込んでいた。黒錆の葉をびっしりと茂らせたその森は、首を吊って自殺した亡者たちを無間に吊り続ける刑場だった。

 今の地獄にはこのような自殺者を精算するための刑場がいくつも存在しており、収容すべき亡者の数に見合わないほど多いとさえ言われているものだった。信仰を持ち得る魂として望ましい姿を保つために、今の生を投げ出す自殺には相応の責苦を課さなければならないという理屈の元にそうなっていた。

 何のために?

 禊のために、らしい。

 コンパスに従いつつも、誤って刑場の敷地を跨がないよう努めてキリウは歩いていた。雨粒で濡れた黒い木々が、辺りを漂う鬼火に照らされて怪しく輝いている。その隙間から、首を縄で括られて吊るされた幾人もの亡者たちの陰が覗いていた。それはさながら黒い果実のようで、茂った木の葉に守られて、彼らは先の雨にも負けずに長い長い死を繰り返していた。

 こういう刑場は雨が降っても撤収を急がなくてよさそうだ、とキリウは羨ましく思った。その傍らで、基地嶋の足取りが森の泥よりも重くなり始めていた。

「きちじま、疲れた?」

 立ち込める瘴気を振り払うように頭を振った基地嶋は、実際のところ、少し疲れた顔をしているようキリウには見えた。

「いいや。さっきから、自殺の刑場が続いてないか?」

 基地嶋の言うことはその通りで、キリウは肯定した。

 進行方向の都合から見物には行けなかったが、この近郊には、金属で身体を傷つけて自殺した亡者たちのための刑場もあったのだ。それは燃え上がる巨大な金属球に追い回されるという、山を掘り抜いて作られた迷宮だった。基地嶋に見せてあげられないのが残念で、雨宿りのあいだ熱心にキリウはそれについて語っていたのだった。

「ああ。立地が固まってるのは亡者の運搬の都合だと思うけど、でも、ひとりで勝手に自殺するとだいたいL2か3くらいになるらしいよな」

「勝手に、って?」

「この世は生きるに値しないってやたらと吹聴しはじめると、悪くてL6くらいまで落ちるぜ」

「そういう……まあ、いいか」

 ちらちらと輝く鬼火が落とす影で、基地嶋の表情はわからなかった。

 代わりにキリウの目が合ったのは、その向こう側にぶら下がっていた、赤黒く膨れた醜い死に顔の亡者だった。吊るされて全身を滅多打ちにされたそいつは、男か女かも判らないほど溶け崩れており、剥き出しになった脚の骨の下で、垂れ下がった腐肉が黒いぬかるみを作っていた。小さな虫たちがそこに群がっているのは、不愉快な空間を作り出すためのデザインだ。よく見れば亡者の身体にも虫たちが取り付いて、崩れた肉の隙間から漏れ出す張りのない体液を啜っている。

 この刑場の亡者たちは明らかに死んでいるようで、しかし例によって誰もがエーテルの作用で生かされていた。じっと見ていると、縄で締め上げられた喉が時折大きく震え、声も無く身悶えしているのが分かるのだ。黒い果実に幽閉された彼らは終わらない悪夢の中にいて、見回りの鬼がやってくるたび岩のような拳で殴られることに怯えながら、おのれの首がちぎれて全てが終わることだけを願っていた。

 別のぬかるみを踏んだ基地嶋が、長い溜息を吐いてキリウに尋ねた。

「なあ。なにもかもうまくいかなくて、しょうがなくなって自殺したやつも、ここに来るんか?」

 一方のキリウは、近くに散らばっている血肉と先程のアライグマの胃の内容物とが似ていることに意識を巡らせながら答えた。

「そーゆーの計算するの大変だから、今は悪いところの加算しかしてないらしい」

「情はないんか?」

「やっぱそう思う?」

 友達の顔を覗き込みながら質問を質問で返したキリウは、虫のような目をしていたに違いない。

 基地嶋は無言で頷いて足を振り、ブーツの甲によじ登ってきた虫を払った。キリウはかれの方を向いたまま、自分が同じぬかるみを踏むのを気にも留めずに続けた。

「人手不足だからしょうがないって、みんな言ってる。昔は亡者に説教もしてたけど、今はしてないし。てか俺が地獄に来た時、もうほとんどしてなかったから、ぜんぜん見れなかったし」

 この時キリウは、以前に読んだ古い地獄の官本の内容を思い出していた。それは過去に鬼たちが亡者にふるったとされる説教の中から、秀逸なものが選ばれて掲載された本だった。そういった説教は、例えば酒に狂って周りの者を大切にしなかっただとか、宗教的な理由で子供を見殺しにしただとかの罪深い亡者に対して行われた。特に有名なのは、「悲しむ者がいなければ罪にならない」と思って孤児を殺した亡者にとある古参の獄卒がふるったもので、それを聞かされた亡者は責苦を受けながら七日七晩懺悔し続けたという。

 元来、獄卒というのは単なる残虐性や、ましてや生ある者への憎悪ありきではできない仕事のはずなのだった。記憶に残らずとも魂に痛みが残ることや、来世あっての地獄の責苦であることを理解している鬼は、今ではとても少なくなっていると言われていた。

 そこまで考えたところで、急にキリウは、自分がする獄卒事の話と基地嶋が聞きたい話とがずれているような気がして黙り込んだ。しかし暗いレンズの向こうからじっと見つめる視線を信じて、再び口を開いた。

「亡者に情があるなって思ったことあるの、ヤットコ地獄の先輩と、三代前の等活地獄のボスと……あとL5の先輩と、どっかの先輩と、賽の河原の魔女くらい」

「どっか……魔女?」

「鬼に優しい鬼はけっこういるけど、亡者に優しい鬼はあんまいない。今の電波地獄の管理鬼なんか――」

 その時、ふいに鬼火の光が遮られて、辺りが僅かに暗くなった。

 ほとんど同時に、後ろから飛んできた鞭のような声がふたりの背中を叩いた。

「何してんだ、L1のチビども」

 キリウのとなりで基地嶋が跳び上がった。振り返ると、そこに立っていたのはふたりの倍ほども立端がある柱のような鬼だった。

 その鬼、首吊り地獄の獄卒は不気味な笑顔を浮かべて来訪者たちを見下ろしていた。それからしゃっくりと紛うひっくり返った声を上げて笑うと、そいつはあっという間に大きな手で基地嶋の頭を摘み上げて、細い身体を無遠慮に揺らし始めた。

「電波地獄から遠足かよ。うぅわ、ちっさ、虫みたい。脚もいでやろうか」

「てめえ触んな、そいつ離せ、デカブツ!!」

『キリウ、穏便に』

 敵を刺激しないよう必死に悲鳴を抑えているはぐれ鬼をよそに、即座に噛み付いた電波地獄の獄卒の瞳は、沸騰した血でギラギラと真っ赤に輝いていた。

 そういった活きのよい態度こそが子供の鬼たちがおもちゃにされる大きな原因なのではないか、という基地嶋の忠告がこれまでキリウに聞き入れられた試しは無かった。キリウが威嚇で放った電気ショックに顔面をかすめられて、のっぽの獄卒が表情を変えた。

「言葉遣いを矯正してやろうかクソガキ――っと」

 さらに、手の中の少年が一瞬にして傍の木に吊り下がっていた亡者とすり替えられたことに気付くと、そいつはべっとりと汚れた手とともにしばし閉口した。

 そいつは目下のキリウのうしろでガスマスクの位置を必死に直している基地嶋を睨んだあと、あからさまにトーンダウンして言った。

「電波地獄の『キの字』か。まだ地獄にいたのか? 自分探しなら他所でやれ」

「仕事で通りかかっただけ」

「バカみてえな色。さっさと出てけ」

 キリウがムッとするより早く、首吊り地獄の獄卒は、抱えた亡者を足元に叩きつけて歩き去って行った。

 仕事が雑な獄卒だな、とキリウは相変わらず他人事のように思った。そして打ち捨てられた亡者を黒い木に括り直そうとして、ふと、決して自分たちが刑場の敷地を跨いでなどいないことを再確認した。

 ということはこの亡者こそ、敷地からいくらか外れたところに誤って吊るされていたことになる。

「なんだよ……」

 思わずぼやいたキリウの顔を、落ち着いたらしい基地嶋がそっと窺ってきた。

「さっきの、知り合いか?」

「違う」

「やっぱり有名人だな、キリウ」

 声を出さずにキリウは笑った。

 実際のところ、地獄でキリウの存在は良くも悪くも広く知られていた。それは主に、キリウが賽の河原で散々の反抗を重ねた末に鬼になったという経緯や、鬼になって以後も「絶対に転生しない」と宣っていざこざを起こしがちだった過去に由来していた。本人としては、電波地獄に押し込められて長くなった近頃はそうでもなくなってきたよう感じていたが、それでもまだ十分にキリウは悪名を持っているらしかった。

 少し歩いて、刑場の敷地内に亡者を置いて踵を返そうとしたとき、キリウは鬼火に照らし出された首吊り地獄を内側から見た。雨のあとの噎せ返るような空間を満たしているのは、滴る雨粒のほかには死に続ける亡者たちの脈動と、時折何かがべしゃっと落ちるような音と、微かな虫の羽音だけだった。

 まるで死の森だ。黒い木々に囲まれて腐り落ちていく、蛆虫に集られた巨大な死体そのものだった。