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25.天使が降る日

「バカみてーだ」

 思わずジュンは独りで呟いた。本当のことだ。今日は天使が降ってくる。真っ赤な複眼に六本の脚、無数の翅をもつ空色の天使たちが蝗害の如く空を埋め尽くし、空中でぶつかり合ってはバタバタ落ちてくる。あんまりいっぱい落ちてくるので、ジュンは今朝からずっとマンションの裏で掃き掃除をして、歩道からそれらをどけていなければならなかった。

 実際のところ、これらは全て幻覚だ。正確には、そこの駐輪場の屋根の上でうずくまっているキリウ君が放つ電波がジュンに見せている幻だ。乾燥した天使の外骨格は吹けば飛ぶほど軽くなっていて、ジュンと同じくらいの体長があってものすごく気持ち悪いにも関わらず、箒の先で突かれてガサガサと転がっていた。背中の翅も砕けて、塵となって路肩に溜まっていた。

 この中で実在するのは、粉々になった天使たちの死骸に混じっている『非実在電波少年キリウ君を捜しています』の貼り紙くらいのものだ。風に吹かれて転がってきたそれは、あるラジオ番組のパーソナリティーだったキリウ君のもののようだった。彼にも捜してくれる人がいたらしい。誰も捜してくれないキリウ君もいる中で、彼は恵まれていると言えるだろう。

 頭の上の空の遠くを逆さクジラが飛んでいた。真っ白な曇り空の真ん中に、太陽くらいの黒い影がぽっかりと浮いている。

 キリウ君は地べたに座り込んで、ずっと膝に顔を伏せて塞ぎ込んでいた。変なの受信したから今日はほっといてくれと言って、彼は今朝からずっとこんな調子だった。ジュンも最初は彼が何を言っているのか解らなかったけれど、近くにいるとこの通り、彼を苛んでいるものが目に見えた。耳が聴いた。第六感が串刺しになった。

 ときどき筆舌に尽くしがたい酷い人生を送ったキリウ君がいるとかで、そういうのが飛び込んでくるとキリウ君はダメらしい。それを辛うじて自分の言葉で教えてくれた彼は、それから焦点の合わない目をして呪いの言葉のようなものをごにゃごにゃ呟きながら、サインペンを噛み壊していた。

 あーー、とか。うーー、とか。

 そうやって他人の心を勝手に抱え込んでいるキリウ君はなんだかとても哀れで、見ていられないというよりはなんてバカなことをやってるんだろうとジュンは生ぬるい目で見てしまう。受信しちゃうからと本人は言っているけれど、それは受信したくてしているようにジュンには思えた。なんのために? 解らないけれど、ただそれが彼が表立って見せない心のゆらぎの一つなのではないかと思うと、ジュンは無性に腹立たしいような悲しいような変な気持ちになった。

 叫びたいなら叫べばいい。ふいにそんな言葉が闇の底から浮かんできた。兄はもう少し素直だったぞと。施設の先輩にゲームで勝てなくてビービー泣いてブチ切れてたぞと。どうせ真似るならそういうところを真似ればいいのに。まだ全然生産所離れできてなくていいガキなんだから。

 本当なら屋根の上から引き摺り下ろして、目が覚めるまで蹴っ飛ばしてやってもよかった。けれどそんな無体なことはしたくなかったし、ジュンにできるのは彼の世界を少しでも片付けてやることだけだった。顔を上げた時に彼の気が狂ってしまわないように……。

 なんだか自分もだいぶ神経がおかしい奴になってきた、とジュンは箒を握り締めたまま思った。体重を傾けた靴の下で、棘だらけの虫の脚が乾いた音を立てて砕けていた。

 それとも、ジュンがおかしくなっているからキリウ君もおかしくなるのだろうか。いや、ジュンがおかしいのは最初からだった。ジュンの狂気がこの関係を作り出した。最初から何もかもおかしかったから、やっぱり今もおかしいのだ。

 もうおしまいだよ。風に舞い上がった翅の粉が身体の中に入って、空洞という空洞に張り付いていく感覚。キリウ君の呻き声は潰れたカエルみたいになっていって、脳みその真ん中が猛烈にかゆくなる。充血して燃えるように熱い眼球。闇の奥から赤い瞳のロボットが歩いてくる。幾度にわたって逆さクジラの遠い声が響くたび、キリウ君の電波はがたがたと震え、激しく歪んで跳ね回る。

 ぶつかって吹き飛ばされたその先で、ジュンの意識は雲の向こうの真っ青な空を見た。

 兄は今頃どうしてるのかな、とジュンは全身を取り巻く風と翅音の中でふと思った。天国にカッパはいるのかなとか、地獄に落ちてたらすごく嫌だなとか、そんなくだらないことを考えていたら心が緩んで、胸にぽっかりと空いた穴を寂しさが吹き抜けた。それはひどく久しぶりの感覚のような気がした。

 放っておいてくれと言われても、どうしても放って帰ることはできなかった。けれど、引っ張り上げて救い出してやる勇気も無かった。まるで自分の手を無心に食いちぎるカマキリを見ているみたいだ。電波が聴こえる場所で、天使たちがゴミのように降る中を、風船のようにぷわぷわと降りていく。