24.非実在、少年
最近、キリウ君が夜中にめっちゃくちゃ空飛んでる気がする。
その姿を見たわけじゃないけれど、飛んできた後のキリウ君はなんとなく雰囲気が違うので判るのだった。光の翅の気配が残っているかのように、人間の形をした人間ではない何かのような雰囲気。それに、あの薄ぼんやりした瞳。程度は段階的だが、キリウ君は時々そういう目になる。微かな変化にも関わらず、覗き込まなくても見分けがつく気がするのは、ジュンが彼の弟をやっているからかもしれない。
もう十二月なのに夜空は寒くないのだろうか、とジュンは思った。ジュンはあまり夜更かしをしないので、彼の深夜徘徊癖がどのくらい深刻なのかが分からなかった。少なくともご近所さんから苦情は来ていないので、ベランダ以外の場所から飛び立っているのだろう。
その予感はすぐに裏が取れた。少し夜更かしして注意深く見ていると、どうやらキリウ君は、毎晩へとへとになるまで外を飛び回ってから帰宅しているようだった。気がかりなのでジュンが直接本人に訊いてみたところ、彼は「海行きたいから」と答えた。
「空飛んでたら、キリウ君じゃなくなれる気がする」
それは彼なりの努力なのだろうか。それとも逃避なのだろうか。
ジュンは、よくわからないが特に止めなくてもいいかと思った自分に少し驚いた。全てキリウ君がしたいようにすればいいのだ。
「事故には気を付けて」
ジュンがそう言うと、キリウ君は無言で頷いた。もう一つ、ジュンは付け足した。
「それと、ちゃんと帰って家で寝るように」
最近、キリウ君は困ったような顔でジュンを見ることがある。
* * *
「こないだのあいつさー。みなしごなんだって」
台所の床にあれやこれやを広げての換気扇掃除中に、唐突にキリウ君が言った。
その『あいつ』が指すものは、包丁を持って玄関にいた例のキリウ君のことだと言外にジュンは理解した。ジュンはレンジフードをブラシで擦る手を止めて尋ねた。
「生産所産じゃなくて?」
「捨て子」
キリウ君は、拭き掃除中のコンロに目を落としたままだった。
「同情なんかしないよ。っていうか、ぼくたちが会ったキリウ君って、みんなそんな感じじゃん」
気乗りのしない話題に、ジュンは明け透けというより投げやりな気持ちになっていた。
実際、キリウ君というのは突然いなくなっても最初からいなかったことにされてしまいそうな奴ばかりのような気がジュンはしていた。仮にそうでない者がいるならば、殺されても警察が調べないだなんて現状を放っておくはずが無いので、この見立ては概ね正しいのだろう。けれどキリウ君は軽く笑って続けた。
「まあね。でもそーじゃなくて。あいつさ、一人でいろいろ悩んで考えた結果、包丁持って来たっぽい」
いったいキリウ君は何を言いたいんだろう、とジュンは思った。
殺した相手の人生に思いを馳せるだなんて贖罪みたいだ。なぜそんな辛くなりそうなことを考えているのか、ジュンにはキリウ君が理解できず、率直な気持ちを吐き出した。
「ぼくはキリウ君と、ぼくの兄のキリウ君と、ぼくの兄を殺したキリウ君以外のキリウ君には、興味無いよ。あいつはどれでもないんだろ?」
キリウ君は少し考える素振りの後、不思議そうにジュンの質問に肯定した。
きっとそうだろうなとジュンは思っていた。何せキリウ君はいっぱいいるから。
なんなんだろう。
ジュンは何をしたいのだろう。今のジュンは、自分の望みも自分に必要なことも分からなかった。復讐かと言われたらそれは違う気がしていた。なんなら夏頃のように、何が何でも犯人を捜してやろうという気すら今では起こらないのだった。キリウ君にまつわる数々のオカルトに触れているうちに、気力を失ってしまっただけとも言える。
もう少しやる気を出した方がいいのだろうか、とジュンは悩む。貼り紙でも作ってみればよいのだろうか?
『非実在電波少年キリウ君を捜しています。ぼくの兄のキリウ君を殺して逃げました』
想像してみて、ジュンは思わず鼻で笑った。研磨剤にまみれた手では、ぼんやりと不快感を帯びはじめた目元に触れられない。ジュンは詰まった心を吐き出すようにぼやいた。
「キリウ君も、ぼくの兄を殺したキリウ君じゃないんだろ」
「違うよ」
キリウ君は表情を変えずに答えた。じゃあ、本当なんだろうな。
それにしてもジュンは今すごくひどいことを訊いたのに、キリウ君は何ら反応しないのだった。彼は五徳のしつこい焦げを見つけて、口をへの字に曲げたままだ。
「キリウ君」
「なに?」
「やなこと言ってごめん」
それを聞いて微笑んだキリウ君の気持ちがジュンには解らない。
「ジュン。俺のこと教えてあげようか」
いつの間にかキリウ君がジュンを見つめていた。ジュンが何も言わずにいると、キリウ君は勝手にしゃべり始めた。
「俺は誰でもないんだよ。俺が前に持ってたIDカードは、逆さクジラに食われて消えた誰かのもので。俺はそいつらに成り代わって生きてきた。だから、誰でもない時は空っぽなんだ」
ジュンはぽかんとしながらそれを聞いていたが、さほど突飛な内容だとは思わず、単に不明だと思った点のみを尋ねた。
「じゃあ、今のキリウ君は何?」
「さあね」
キリウ君はジュンに何も言っていないつもりかもしれないけれど、ジュンはずっと、キリウ君が言葉にした全て以上のことを感じ取ってきたつもりなんだ。
* * *
ひとつ、ジュンは気づいたことがある。深く寝入っているときのキリウ君は、ジュンが知らない顔をしている。布団で寝れなくてしょっちゅう長座布団で転がってしまうところは兄と同じなのに、寝ている顔はそうではない。
死んだように血の気のない頬。寄る辺のない子供の顔。彼は誰でもないキリウ君。