作成日:

23.特定希望

 たくさんいるらしいはずのキリウ君も、探そうと思って探すのは大変だ。それなら向こうから見つけてもらえばいい、とキリウ君は言った。

 ジュンは先日海に行った時にミーちゃんが撮った写真を見繕って、自分とキリウ君が一緒に写っているものを三枚ほど自分のSNSアカウントにアップロードした。これまでずっとミーちゃんを被写体にした写真しか載せていなかったため、普段からジュンのアカウントを閲覧している人たちは戸惑うだろうが仕方がない。写真を説明するための情報には現地の位置情報とキリウ君の名前を入力しておき、仮にネットでキリウ君を捜している人がいればすぐに見つけられるようにした。

 すると真っ先にコメントをつけてきた者がいて、ジュンがびっくりして見ると、しかしそれは以前に互いのアカウントを教え合っていたユコだった。ハイテンションな絵文字だけが並んだ元気なそのコメントに、ジュンはわざわざ「キリウ君だよ」と返信した(それから一分以内に彼女はさらに別の絵文字だけのコメントで返信してきた)。

 こんなので本当に効果があるのだろうかジュンは苦笑したが、ミーちゃん自身が撮った写真というコンセプトは思いのほか普段からの閲覧者にも受け入れられ、エモいだとか愛が伝わってくるだとかいうコメントが寄せられ、つい気を良くしたのもまた事実だった。

 

  *  *  *

 

 とかなんとかいうのが、つい昨日のことだった。

 ジュンは思わず声を上げた。半ドンの帰りに買い物袋を下げてマンションの外廊下を歩いてきたら、角部屋の自宅の扉の前に知らないキリウ君が立っていたからだ。しかも彼は剥き出しの出刃包丁を携えて、ともすればそこにいるのが分からないほどに気配を消して、石像のようにそこに佇んでいた。

 話が速くて助かるがこういうのはすごく嫌だ、とジュンは率直に嫌悪感を抱いた。声が出てしまったのは悪手で、ジュンの存在に気付いたそいつは音もなくジュンを振り返った。案の定、そいつは完全にイカれた目をしていた。真っ赤な瞳がその周囲を巻き込んでギラギラと輝き、体内で滾る血の音を見る者に想像させる凄まじさを持ったそれは、ジュンの全身を一気に緊張の最中へ引きずり込んだ。

 そいつはジュンの顔を見て、恐ろしい笑みを浮かべた。本当にSNSの写真とそいつがここにいることとに関連性があるのだとすれば、それはジュンをキリウ君と誤認したわけではなく、おそらくジュンとともに写真に写っていたキリウ君の存在を確信しての、悍ましいまでの殺意の籠もった笑みだった。

 ジュンのキリウ君いわく、たとえキリウ君でもキリウ君以外に怪我をさせるのは問題になるため避けようとするはずだそうだ。しかし今目の前にいるキリウ君には、そんな常人の道理は通用しないような気がジュンはしていた。そもそも、例のジュンをキリウ君と間違えて殺そうとしたキリウ君だって、迷いに迷った挙句にジュンを殺害しようとしたじゃないか!

「ちょっと……待って」

 ジュンは努めて冷静に声をかけたが、彼は口角を吊り上げたまま包丁の柄を逆手に握り直していた。これはダメだ。ジュンが覚悟を決めて上着のポッケからスタンガンを取り出そうとした、その時だった。

 玄関の扉が軽やかに開いて、中から能天気な声がした。

「おかえりー」

 玄関先でジュンの気配がしたせいで、出迎えに来てしまったミーちゃんだった。

 ガン、と扉がぶつかる間抜けな音がした。開かれた扉が、前に立っていたキリウ君の身体を強打したからだ。そして扉が何にぶつかったのか分からないミーちゃんが首を傾げながら外を窺おうとした瞬間、部屋の中からすっ飛んできたらしいジュンのキリウ君の腕が、凄まじい勢いで彼女を掴んで部屋の中に引き戻していた。

「ミーちゃん、中にいてっ」

 そう叫んだキリウ君の声に、包丁のキリウ君が反応した。弾かれたように動いたそいつは、ジュンのキリウ君が閉め直そうとした扉の隙間に即座に膝をねじ込んで、聴き取れないが確実に罵声だと分かる大声を上げながら無理やりこじ開けにかかっていた。そのような中、ジュンのキリウ君が部屋のドアをぎゅーぎゅー引っ張りながら、なぜか焦った風にジュンに声をかけてきていた。

「ジュン、大丈夫!?」

 心配してくれているらしいが、全くそのような場合ではない。そして同じ顔、同じ身体、同じ声を持っているはずの扉越しの二人のキリウ君があまりにもかけ離れていて、ジュンは不思議と涙が出そうになった。

 ジュンは手に取っていたスタンガンをそのまま引っ張り出すなり、ほとんど衝動的に包丁のキリウ君の太腿に押し付けてスイッチを入れていた。普段のジュンならば刃物を持ったキチガイのリーチに飛び込むような真似など出来るはずがないが、この時は完全に、恐怖心がもっと別の攻撃的な恐怖心で塗り潰されていた。スタンガンを食らったそいつは化け猫みたいな声をあげて、ガタガタと扉にぶつかりながらその場に崩れ落ち、床に叩き付けられた手から包丁もまた転げ落ちていた。

 物騒な金属音を立てて転がった包丁をジュンは素早く拾い上げ、目下のそいつがしていたのと同じように逆手で握った。ジュンにはイメージがあった。自分の兄と同じ顔をした生き物を、自分の手で殺すイメージだ。これから自分たちがしようとしていることにはその覚悟が必要なのだとジュンは思い込んでいたし、それを今日ここでそいつの姿を見た瞬間から思い描いてもいた。

 なのにジュンがそれを構えて振り上げた時、半開きのドアから飛び出してきたキリウ君の手が、包丁を握ったジュンの手を上から握るように強く掴んでいた。

 ジュンが驚いて顔を上げると、ジュンのキリウ君は靴も履いていない足で、足元でもがいているそいつの頭を踏みつけていた。ジュンのキリウ君はそこから目を離すことなく、まるで手品のようにジュンの手から包丁を掏り取ると、その切っ先を迷い無く垂直に振り下ろしていた。

 あっ、と声がした。それがジュンのものであったか足元のキリウ君のものであったかは判らない。

 そいつの首元に突き立てられた包丁の刃は、発泡スチロールにでもそうしたように易々と沈み込んでいった。ぐいっと体重をかけられたそれは刺した時と違う角度で無遠慮に引き抜かれ、空いた穴から溢れ出した鮮烈な赤色は、ぞっとするような鉄のにおいを立ち昇らせながら床へと広がっていった。

 痙攣したように暴れだしたその身体が、ジュンのキリウ君の手によって部屋の中にずるりと数十センチほど引っ張り込まれる。脚がばたついたのを見てか、キリウ君はそいつの太腿を服の上から一閃した。更にキリウ君は、ごぼごぼと赤い泡を噴きながら千切れるほどに目を血走らせているそいつの身体に、何度か包丁を振り下ろした。

 キリウ君の痩せた身体は骨ばかりで、刃がいちいち骨に当たって止まる音がしていた。

 やがてそいつが動かなくなった後、キリウ君は息の荒くなったまま顔を上げた。しかし血の海に沈んだ自宅の玄関を前に完全に血の気を失っているジュンを見て、口を一文字に結んだ。

 彼はジュンに向かって潜めた声で「外行ってて」と言った。それでもジュンが動けないままでいると、ふと彼は、ジュンの足元を見て軽く舌打ちした。その響きに冷たい水をかけられたようになってジュンも見ると、そこにはジュンの靴底に付着した血で赤黒い足跡だらけになった外廊下が広がっていた。

 キリウ君はシューズボックスから取り出したサンダルをジュンに渡して、もう一度言った。

「すっげぇ気分悪そうな顔してる。これ履いて、二時間くらいどっか行ってて」

 ご近所さんに見られても俺が説明しておくから、と付け足して、キリウ君は洗面所へと消えていった。

 履き替えたサンダルで近くの公園まで歩いていったところで、ジュンは街路樹の根元に嘔吐した。