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スギナ様

 セヴ郎にとって今世で唯一の友人であるキリウ君がスギナ様に取り憑かれて、早くも一年が過ぎた。

「もうずっと、液体肥料しか飲んでなかったから!」

 真夜中のこと、ちゃぶ台でセヴ郎の手料理をかっ喰らいながらキリウ君はハシャいでいた。何せあの悪名高い、しかし強大な権力を持つ『植物園』から脱走してきて以来、丸一日飲まず食わずで走り続けて、数時間前ようやくセヴ郎の賃貸に転がり込んできたのだから。

「そんなに美味しそうに食べてくれたら嬉しいな」

 セヴ郎はやや苦味を帯びた表情筋でもってはにかんだ。彼は知っているのだ、キリウ君には『植物園』での治療が必要なことを。そしてそれがどんなに辛かろうと、長い治療が終わるまで決してシャバに出てきてはいけないということも。

 祈るような気持ちでセヴ郎は洗い物を続けていた。確かにキリウ君は、キリウ君自身のためにも、そして人類の発展のためにも隔離されていなければならない。しかしキリウ君が塀の向こうにいる一年間、セヴ郎が寂しさに耐えかねて老人介護に走っていたこともまた事実である。

 セヴ郎はキリウ君が帰ってきてくれて嬉しかった。

「セヴ郎はどうなの最近、相変わらずシングルマザーの経済支援に興奮してるのかな?」

「マダムキラーすぎてやめちゃったよ。それに、家業を継ぐことにしたんだ」

「ねああああああああああ!!」

 味噌汁のアサリを威嚇するキリウ君を見て、セヴ郎は微笑んだ。スギナ様に取り憑かれても、植物園に幽閉されても、キリウ君はキリウ君のままで変わらなかった。何もかもが変わりゆく世界に眩暈がしてしまうセヴ郎のような人間にとって、キリウ君は雑踏の真ん中で見つけた止まり木のように思えた。

 しかし、キリウ君の威嚇に対抗して、味噌汁のアサリの開いてなかったやつが震え始めた。その動きはキリウ君に『植物園』で受けた催眠療法を思い起こさせた。同時に、キリウ君の耳に、どこからか低い太鼓の音が響いてくる。

「キリウ君、アイス食べる? コンビニ行ってくるから……」

 なんともなさそうなセヴ郎の様子を見るまでもなく、それが幻聴であることにキリウ君は気がついていた。アサリの震えが大きくなるとともに、キリウ君の視神経の裏でひっきりなしにアットホームな職場のイメージが弾ける。無意識の大地の底で、地下茎で繋がった労働組合に引きずり込まれる。

 誰かがキリウ君を呼んでいるのだ。やっぱり勝手に他のみんなから離れたのが悪かったんだ、とキリウ君は思った。『植物園』には、彼と同じようにスギナ様に取り憑かれた人がたくさん閉じ込められていた。なのにキリウ君が逃げ出したから、スギナ様はキリウ君に本当の絆を叩き込みに来たのだ。今度はスギナではなく、アサリとして。

 アサリの威厳が限界まで高まった直後、キリウ君の頭は爆発した。スギナ様の胞子を撒き散らすために。そうしてカランカランと音を立ててちゃぶ台に落ちた箸を見て、セヴ郎は家を飛び出した。

 復讐の旅の始まりだ。