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89.事務室にて

 カッキーン。……わあああ。どやああ。ぎゃはあああ。

「オヤっさんくらいの友達がいたんだ」

 机で帳簿を付けていた老人は顔を上げた。その手元にキリウ少年が、カットしてきた四角い菓子と茶を差し出した。

「ほんとだよ。知り合ったのは、そいつがずっとシマシマな頃だったけど」

 老人には疑ったつもりなどなかったが、少年も疑われたなどとは思っていなかった。ただ、自分に対して完璧な自信が持てないキリウには、そんな言い方しかできなかっただけだ。

「そいつ学校というのに対して隙間があってね。でも町内会長にサドられるから、よく絶望的なふりしてたの。それで俺はヒマだから、隙間でいっしょにカードしてた。でも仲良くなれたと思ったら、そいつ学校にもバンド仲間できたみたいで、っていうか俺みたいな変態と遊んじゃダメって町内会長が。あんまり説法にも走れなくなって」

 埃っぽいソファに顔面から倒れ込んで、キリウはくぐもった声で話を続ける。

「でもたまに俺と遊びたいっつって、こっそりキてくれてたんだよ。そいつがだんだん悲しくなって、好きな人ができたり、索敵とか工作で忙しくなったりで、余裕がなくなるまで。その次に会ったのが契約祝いさ。ジュニアができた時、一回だけ手を握らせてくれたの。そのあと奥さんにめちゃくちゃサドられたらしいが」

 カッキーン。……わあああ。どやああ。ぎゃはあああ。

 硬い凶器が硬い球をぶっ飛ばす音、湧き放題の奇声、奇声、生きてるだけで面白いみたいな大爆笑。ちらかし放題。見境ないナンパ。逆ナンパ。

 やはり息苦しさを覚えた少年は勢いよく起き上がることにした。そしてソファに普通に座ることを覚えた。耐えられなくて五秒で膝を抱えたが。

 両手で作ったピースを顔の前でクロスすることは、三光年右と二十光年左では少し違った意味を持つと言われている。今のキリウのそれが伝えたい気持ちとは別の意味を。

「……いろいろあったけど、気が付いたら何十年も疎遠でね。ついによーやく乗ってったら、りっぱにジジイになってやがった。内臓がふくらんで入院したって聞いて、俺はパロディに気づいてやらないまま見舞いに行ったけど、すごく驚いてた。ほんと……ひとりでモノポリーするくらい寂しいというから、毎日行って、昔みたいにくだらない話をした。もしかしたら古生代の全部よりいっぱい話したかもしんないぜ。だから俺の心の中のそいつは、オヤっさんくらいなの」

 ――アメ屋から足を洗ったはずの男が、転売で命を落とした知人からこのバッティングセンターを継いで数年が経つ。

 その名義貸しの書類上の息子のひとりは落ち着きなく、今度は事務室じゅうに転がってる箱の一つから、景品用のアメの袋を引っ張り出した。飾り気のない包装を含め、もちろんオーナー手作りの品だ。

「たまに、見舞いに来た姉だの息子夫婦だの孫だのヒヨコだのと鉢合わせると、最悪だったけどね。みんな俺のこと気味悪がッてたもの」

 少年が勝手に袋の中身を物色するのを、特に老人は咎めなかった。いつものことだからだ。それにキリウが、持ってきた良いとこのカステラを自分は食わないで、いつも通りに好きな色のアメを探しているのが面白かったからだ。

「オヤッさん、ヒヨコってピヨピヨ鳴くんね」

「そりゃそうだろうな」

「俺と同じだ」

「嘘つけ」

 カッキーン。……わあああ。どやああ。ぎゃはあああ。

 オヤっさんは、手を叩いて喜ぶ若者たちをブラインドの隙間から一瞥した。金ぴかの老眼鏡を押し上げる仕草は苛立ち混じりのようでもあったが、その実何も感じてなどいないことは周知の事実だ。でもぼやいた。

「うるせえ餓鬼どもだなあ」

 気付けば絵に描いたような棒付きのぐるぐるキャンディーを手に、少年が答える。

「ユコがいないからね」

 昼下がりの陽の光だけでは少し足りない薄暗さの中、オヤっさんが振り向くと目が合ったキリウは、キャンディーを軽く振って口角を上げた。

「これからもっと増える」

 そうだな。

 あの少女がバッターボックスに立ってると、むやみにうるさい奴らや、周りに絡みたいだけのような奴らは来なかった。彼女にとっては時速なんキロメートルで飛んでくるボールも、オヤっさんの商売をジャマする奴らの頭も、変わらないのだから。

 中学生のユコがキリウに勝負を吹っかけた日のことを、オヤっさんは思い出していた。確か、交互に十球(ここの下限だ)ずつ打って、先に打率がいくつを下回った方が負けみたいな……地味だがデスマッチじみたその勝負は、ついにユコが腕をやってぶっ倒れるまで終わらなかった。終わる頃には二人とも汗だくで真っ青なうえ、完全に頭が飛んでいた。俺をなめるなよと息も絶え絶え高笑いのキリウと、今にぜったい這いつくばらせてやるからと涙混じりに咽せ返るユコとを、皆けっこう面白がって眺めていたものだ。

 しかしなぜ彼女がそんなことをしたのかは、今となっては誰にもわからない。

「おい電波少年、話の続きは」

「ああ! 俺、電波塔のアレもうやめたから」

「ンなの関係ねえよ。つうかまた仕事やめたのかよ。なんのためにおれ名義貸してんだよ」

「……けっきょく俺とノースカロライナの交渉をしてる時にね、そいつ内臓が破裂しそうになって。俺は病院の人に頼んで、でも呼ばれてきた親戚と会ったら疫病神呼ばわりされるの絶対だから、逃げちゃった。その後そいつは内臓が破裂して死んじゃった。それだけの話なんだ」

 ぐるぐるキャンディーをバリバリ噛み砕いてるキリウは、あの日と一分も変わらぬギラついた眼球をさらしていた。

「お前は変な奴だなあ」

 ふとオヤっさんが呟くと、少年は棒を食うことをやめて明後日の方を向いた。

「ぎりぎり歳の離れた息子くらいだったのによ。まるで孫かよ」

「はん。孫ってひとつ離れてるから、無責任に甘やかせるんだろ。破廉恥どもめ」

「いらねえよこんな孫」

 キリウのバカにしくさった冗談にもオヤっさんは笑っていた。無責任の裏でその責任を持つはずであろう『ひとつ』とやらが、どこにもいないことに変わりはないからだ。もとより、そんなものがなくとも地獄の果てまで無責任だというのに。

「あとはお前だけだ。キリウ。おれを頼ってきたバカどもは皆死んだ」

 オヤっさんが、名義貸しなんて自傷行為にも似たバカはやめようと半分くらいは降りたところに現れたのが、街でも少しばかり顔が知れたこの悪魔だった。他にもバカはいるだろうに、なぜよりによって身を引こうとしてる自分なのかと尋ねたら、やめようとしてるってことはまともなんでしょうと主張されたのが印象的だった。だからその永遠の少年、正確には数年後そいつが連れてきた少女が、彼の名義貸しの最後の契約者なのだ。

 増えることのない色とりどりの蝋燭の火は、もともとずいぶん短いものばかりだったような気がした。

「でもなあ。お前らは少し頭がイカれてはいるが、一番かわいい奴らだったよ。しょっちゅう顔見せるしな。ユコもな、最初はどうなるかと心配だったが、よく、お前に似て優しい子に育ったものだとおれは思ってる。あの子は危ないところもあったが、店をよく手伝ってくれて」

 カッキーン。……わあああ。どやああ。ぎゃはあああ。

「あいつら殺してくる」

「おい」

 転がっていたヘルメットを掻っ攫うように拾い上げ、顔を隠すみたいに深くかぶって飛び出して行ったキリウに、オヤっさんの「おれがやるから」という言葉は届かなかった。