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87.俺たちに明日は無い

「起きろ。起きろ親不孝者。おいこら」

 不名誉な事実である。

 最終的に、腹の傷を指でギューと押されないとユコは飛び起きなかった。飛び起きたといってもほとんど神経系だけで、それは再びすぐウツロになり、痛みのせいか彼女は額に冷や汗浮かべて真っ青になっていた。

「おい、えらく具合悪そうだな。ほんとに退院前かよ」

 呆れたように見下ろすのはルヅだ。彼が泥棒のセオリーを実行した挙句に全開となった窓から差し込む銀色の月明かりを背中に遠く、死神のような影を落としていた。このサイコ野郎は、自分のせいで目の前の少女がそうなってるのだと分かっていたが、まんざら冗談を言ったわけでもなかった。

「なんだこれは」

 跳ね除けられた布団の下のユコは、まるで今からちょっと出かけて人でも食ってくるんじゃないかというような、とても就寝中の入院患者とは思えぬ装いだった。それより何より明らかに異常なのは、左腕がフレームに鎖で繋がれているという倒錯した一点かもしれない。

「……脱走しよーとしたのばれて……」

「ガキかよ」

「鎮静剤があわなかったのかな、マスイの時もこんな、部屋じゅうが血まみれみたいに見えてた……」

「鎮静剤ィ」

 入れる病棟を間違えたらしいな。

 ルヅは少し考え込むような仕草をして、やがて息を吐いた。病院だというのに果たして相変わらず咥えてるタバコの火が、闇の真ん中でふっと揺れた。

「死にたがりの素人が血にかぶれやがって。抜け出して、また罪も無い善良な市民の皆様を傷付けるか? よーやく大ヤケド食ったくせに、あいつにかまってもらえたのが、そんなに嬉しかったのか? 良い子になるつもりは微塵も無えのか親不孝者」

 見舞客用の椅子に座り込んで、からかうような口調でルヅが尋ねる。同時に彼は、善良な市民の皆様とかいうのがこんな街で夜中にうろついてるわけがあるかカスめと思っていた。

 彼は答えを聞く意味が無かったが、ぼんやり頭のユコもまた、このやりとりが無駄だと薄々気付いていた。

「あなたなにもわかっちゃいない」

「分からんわ気色悪い。救えない奴め」

 そうだ。ユコがケンカするのは趣味にほかならない。そしてユコはもう、『あいつ』が電波塔のバイトに手を出して暇になってからというものの、充分なくらいかまってもらえた。だいたい仮に救えたとして、救うマメさはルヅには無い。

 ユコがケンカするのが趣味だとしたら、ルヅがタバコ吸うのも趣味なのだろう。やらなきゃソワソワして苦しくなって、手がガタガタ震えて、眠ることも忘れて暴れ出したくなるくらいの趣味を持てたことは、きっと幸せなことなのだろう。ただ、なぜかこの時二人とも笑っていた。顔を見なくても分かるくらいに笑っていたし、互いにそれを悟られて嫌な気持ちになった。

 生き急ぎたがりの片一方にベッドの足を蹴られて、驚きもせずにもう片一方が、心底だるそうにぼやく。

「……キリウ、あなたがお金返してくれないって。イヤガラセされるって」

「でたらめ言いよるわ。勝手に貸し付けてくるの手前だろうが。だいたいあのチキンは手前の娘にそ~いうのをグチグチ言うようなウジウジしたカスだったのか。百年の恋も冷めた。幻滅した」

「ひどいよ。盗んだタクシーで轢いたり、針金巻いて電気流したりしたんでしょ」

「何の話だ。オレはただ」

 ルヅはただ、キリウを磁石にしたかっただけなのだ。

 だがその発想自体がすでに、電波にあてられたものなのかもしれなかった。

 彼はこの友達の義理の娘、または友達の友達が、当初から妙に彼に冷たく当たってくる理由が分かった気がした。鎮静剤なくしては、穏やかな顔を見ることすら叶わなかったであろう少女が。

 窓から吹き込む夜風がタバコの煙を散らしていく。同時に巻き上がる空気の悪さに、ユコはやっとふらつく身体を起こした。そこには彼女が見た悪夢がただ広がっているだけだったが、ふと彼女は、ルヅの足元に転がる小さな影に目を留めた。

 友達の友達なんてこんなものかい? ねえコスモリーナ、こんな時間にお見舞いに来るバカは、いくらなんでも狂ってる。

 ユコが抱いて眠っていたはずのトランは今そこで、頭が割れ、目玉は破裂して、灰白色の小さな身体じゅうにひび割れをまとって、誰のものとも知れぬ血だまりの中でぴくりとも動かないでいた。片っ端からもぎ取られたのであろう羽と腕の欠片が周囲に飛び散り、粉々になっていた。

 身を乗り出そうとした彼女へ、男はずっと両手で下げていたバカみたいな散弾銃を向けた。そして椅子に座ったまま、骨精霊の羽の欠片をまたひとつ踏み砕くと呟いた。

「弟」

 喉の奥に歯ブラシを突っ込む以外で気持ちいいこと募集中。

「弟って言っただけだろうが。誰を思い浮かべたか知らんが、なんて怖い顔しやがるんだ。お前が刺し殺した雑魚の弟分が、オレに涙ながらに頼んできたんだぞ。できるだけむごたらしく貴様をブチまけてくれと」

 にわかに殺気立つユコとは対照的に、淡々と述べるルヅはいつもとまったく同じ様子で、なんにも変わったことなんかしてないみたいだった。

「あんな雑魚にそんな傷つけられたのかよ。オレならダサすぎて自殺してるわ」

「……」

「依頼料しょっぱいし。どうせあのゲーセンで二日も遊んだらパーだろうが」

「……」

「元手はもっと安いかもな」

 もしかしてメダル?

 ユコは額に手を当てて、再び布団に倒れこんだ。左手の鎖が重たい音を立てた。何もかもイヤになったのもあったが、ひたすら重たい身体を支えることも、想像以上に億劫だったからだ。ずいぶん薬が強かったのかもしれない。

 うるさくなった胸の鼓動が引っ掻き回す彼女の頭の中に、ぐえぇという悲鳴とともに噴き出したケチャップの飛沫がおぼろげに蘇る。あいつは死んだのか、と彼女は他人事のように思った。

「……あの、私ひとりやるのに、こんなことしていいの」

 もはや夢でも幻覚でもないはずだ。薄暗くても白い壁を、ペンキでも撒き散らしたように彩っているのは、ユコの他の四人の患者の中身だろう。いったいこの男は何をしたのか、彼らに詰まっていたあらゆるものがいたるところに飛び散っており、それぞれのベッドには無残な残りカスが月の光を浴びて横たわるだけだった。

 尋ねられたルヅは再びベッドの脚を蹴って、また蹴って、愚問とばかりの態度で吐き捨てた。

「自惚れるなよ田舎者。誤魔化すために、わざわざこの部屋の患者全員分、オレが営業かけて依頼をとってきてやったんだぞ」

「殺し屋なんかやめて、営業マンになればいいのに」

 どこか上の空のまま純粋に感心した少女の所感は、やりたいことと才能とのズレに悩む男を多分にムカつかせ、短くなったタバコの灰を彼女の腕に落とさせた。おかげで彼女はそんな微妙な心を察したようで、慎重に言葉を選ばざるを得なかった。

「……そんだけ凄腕なら、誰でもムカつく奴を殺せるだろうね」

 聞くなりルヅは銃を乱暴に置き、今度はユコの腕に容赦なくタバコの火種を押して焼いた。ユコとしてはルヅの営業センスを褒めたつもりだったが、ルヅには、ユコのことが嫌いで嫌いで殺したいから依頼をとってきたんじゃないかと、勘繰られたように聞こえたのだ。なぜなら実際に、ルヅは殺したいほどユコのことが嫌いだったからだ。

 そのままルヅは、彼女の強張った腕を無理やり捻り上げて、枕元の壁に叩き付けて、上着の内ポッケからペンチを取り出した。確かにペンチは何本あっても困らないがそういう問題ではない。彼はその先端で、少し伸びたユコの人差し指の爪を雑に挟むと、反対側に引っ張りながら言った。

「調子に乗るなよ人殺し。オレはこれで食ってるからやるだけで、貴様みたく意味もなく他人をブン殴る病人とは、根本的に違うんだ」

「や、やだ変態」

「黙れ貴様のほうがド変態だ。全部引っぺがしたら覚悟してろ」

「あ」

 鎮静剤でフラフラの奴痛めつけて、本当に客の要望を叶えられたと言えるのだろうか? ルヅはその疑問を言葉にはしなかった。そしたら目下の減らず口は、やっぱりあなたは他の仕事をした方がいい、とか答えただろうから。

 鎖がぎちっと鳴るとともに、むしり取られた人間の欠片が汚い床に落ちた。年頃の割には傷を重ねたせいか歪な少女の手のひらに、裂けた指先から流れ出した赤いリボンがこぼれた。

 だがそんなことはどうでもいい。

 無感動にルヅは次の指に工具を押し当てる。すると、横になって血を見つめたままの彼女が小さな声で何かを呼んだ。それはルヅが蹴り殺した彼女の友だちの名前、だったかもしれない。

「……あなた、トランのことは、好きだと思ってたのに」

 闇の中で顔を上げたケンカ狂いは、気持ち悪いくらいの敵意と狂気と脳内麻薬に満ちた瞳に、微かな涙を浮かべていた。そこに一切の感情が介在せず、単なる痛みによるものだと知るのは彼女しかいない。

 その時、ルヅは血に浸かった靴を何かに引っ掻かれたようだった。同時に足首を走った刺すような痛みに、彼は――這い上がってきた死に損ないのネコの幻覚を見た。

 ほんとの死にたがりがこの刹那、拷問官の手からペンチを力任せにひったくって振り上げるなんてことを、するわけがない。するわけがないのだ。