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85.ファザーブラザーコンプレックス

 それから何週間か経った。入院生活があまりにヒマだったので、ユコとしては倍くらい繋がれてたような感覚だった。指と歯だけかと思ってたら実際には頭とアバラも折れてたとか、腹の切り込みからパピプとかが入ったとかで、長いこと大人しくしていなければならなかったのだ。

 でも若さっていいもので、気が付くともうすぐシャバに出られることになっていた。

 流れでずるずると行ってしまい、結局あの医者にいくら貸したのだろう……そんな勘定をしながら、彼女がキリウ少年に連れられて、人影まばらな夕暮れの街を散歩してた時だ。

「もしかして俺より立端ある?」

 それまで差し歯の話でハシャいでたキリウが、急にどきっとした素振りでそういうことほざいて、飛びのいた。手持ち無沙汰に振り回してる腕は、あの時ユコが麻酔で見た幻覚の黒さのかけらもなかった。

「これ、カカト厚いから」

 ユコは、最後に使ったのが高校の入学式だなんて固い靴を、傷の残る手で指して笑った。血で汚れた靴を捨てたせいで、今はこんなのを履いていた。

「びっくりした」

「なにそれ。他人に背ェ抜かされたことないの」

「すべての宇宙のすべての時空のすべての次元で抜かされたとして、今は今さ」

 俺ときたら昔のことは忘れるし明後日のことは考えられん、などと彼は続けた。さらっと言うので流してしまいそうになるが、よく聞くとまるでダメだ。

「うちゅうってなに?」

「知らん」

 愛しさ余ってほんとにまるでダメだ。

 下校中のアホガキ共の集団が二人を追い越して、脳みそ入ってなさそうな叫び声を上げていった。はぐれ羊の仔ばかりが集められた庭の中で、笑う方法どころか、徒党を組む術を覚えることができた幸運な奴らだ。

 そういうのを見てたら、ユコはふと思い出した。家路について群れから離れた個体を物影に引きずり込み、最初に滅多打ちにした時のこと。潰されてたまるかと、自分の敵は自分でなんとかするのだと、キリウに心配かけて困らせたくないと、あの頃は必死だった。毎日一匹ずつ順番に、ユコを突っつき回すやつがいなくなるまで、何周でも繰り返した。センセにチクられたら、チクらなくなるまでそいつを蹴っ飛ばさなきゃならなかった。

 たぶんあれが、生まれて初めてユコが、生きるということに対してマジメになれた瞬間だったのだろう。誰も彼もが見殺される街に触れて。

 もっとも、やがては手段が目的にきれいにすり替わって納まってゆくのだが。

「借金取りに戻るんでしょ」

 ユコが何の気なしに尋ねると、キリウは斜め下に目線を逸らした。

「あの……俺、ジュンみたいに器用じゃなくて、知らない人に優しくするとかけっきょくダメで、やっぱり今できるのあれしかなくて……」

 なぜか彼は言い訳じみた様子で、どこか申し訳なさげに肩をすくめていた。

 キリウがある日急に借金取りをやめてから――例の電波塔の監視を始めるまでの数年間、落ち着きなく職を転々としていたことはユコも知っていた。カッパ育てたり、ウサギ丸めたり、はたから見てもじつに色々なことをやっていた。だがどこへ行っても人格の問題だとか、周りの人とうまくいかないだとかで、続けられなかったという。

 ユコにはどうしてもその点が腑に落ちなかった。ユコや身近な人と接している時の彼は、ちょっと照れ屋でアナーキーなふつうのマキャベリストにすぎない。寂しい夜には有刺鉄線を編みながら星を見てるような、そんなやつなのに……。

 きっと、まだ自分が知らないキリウがいるのだろうなとユコは思った。

 でもそんなことはお互い様なのだと気付けなかったのは、ユコが若いからだった。

「無茶しないでね」

 彼はなまっちろい指で自分の頬をつねりながら、無言でうなずいていた。

 そっからしばらく歩いたところで、キリウが思い出したように喋った。

「俺、大人になんないの」

 それはまさに、思い出したようにとしか言い表せないくらいに、どこからかこぼれ出てきたみたいだった。でもそんなの今更だった。なにせユコはキリウから、将来の夢とか大人になったらなりたいものとかを尋ねられたことがなかったのだから。

「髪切りなよ」

「うるせえ」

 ほわっとした風が吹いていた。