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79.地獄のフレンズ

 数日が経った。この日は強い雨が降っていた。

「よお。ケンカきちがい」

 学校帰りのユコがルヅに出くわした時、彼は屋根つきのバス停をタバコの煙でいっぱいにしていた。他の利用者らの神経にヤスリをかけるかのごとく、まったく周りに配慮の無い様子でベンチの真ん中に座り、ユコに向かってひらひら手を振っていた。

 ユコは立ち止まった。彼女にはバスに乗る用事は無いし、この男と知り合いなのだと他の人に思われたくもなかった。だが、近頃のぼんやりとした不安にあてられたように傘を閉じ、屋根の端っこに入った。

「あいつ、どおしてる?」

「自分で会いに行きゃいい。ていうかあなた、しらふ?」

「何を言ってるんだ。なんでオレがそんなことするんだ」

 ユコには、鞄持ちのトランを無理矢理捕まえようとしているルヅが、わずかに酒気を帯びた目をしているように思えた。もっとも、ユコはルヅの顔をまともに見る気がなかったため、それが彼の平常運転であるかどうかは永遠に判らない。

「どんどん意味不明になってるし、見てると痛々しいよ」

 この時『どんどん意味不明になってて見てると痛々しい』人物はいくらでもいたが、二人は偶然にも、共通の友人のことであると思い込んでいた。

 ――他人にとってはなんでもない出来事から、数日が経った。その間変わったことは何も無く、この街はいつも通りの無法地帯ぶりをひけらかしていた。そうせずにはおれないのだ。

 ルヅが手を咬んできたトランをベンチの角に叩き付けようとしたところ、すぐ飼い主に奪い返された。しかしそれ以上の報復がなかったことは、彼を気持ち悪がらせた。

「私はどうすればいいんだろ」

 一方のユコは、ルヅと視線を合わさずに呟く。雫を払ってもないビニール傘が膝丈のスカートを濡らしていたが、気付いていないか、気にする心持ちではないらしい。

「知るか。分からんなら何もするな。せいぜい弟の後を追うのを邪魔してやるなよな」

「やめてよ。あなたっていつもそうなんだね」

「誰がやめるか、人間がブレてないと言え、存在自体がブレブレの貴様にゃもったいねええ」

 その男の意味不明な言葉は、キリウ少年やこの街の他の住民とはまったく違うロジックで生成されていた。そんなものを並べ立てて、なぜか彼はふと、シャツのポッケに入れていたタバコの箱をユコに向けて差し出していた。すぐ思い直したのか、少女が気付く前にスイと自分の口元に持っていったが。先に咥えていたやつを地面にはじき落として。

 立ち上る煙は、もっぱらモラルと風の気まぐれの中でのみコントロールされる公害だった。

「あいつの弟だっていうから、大目に見てやろうと思っていたのに、やはり人様を無視するせいで罰が当たったワケだ、死んで当然のいけすかないクズだ、ざまあみろだ」

 何かをごまかすように、しかし心の底からなんの脈絡もなく湧き上がってきた呪いの言葉を、ルヅはためらいなく外に放つことができた。言葉というのは不思議なもので、形にするとますます輪郭をくっきりさせて返ってくる。彼はみんな死んでほしいと思っており、本当にみんな死んでほしいと思っていたし、みんな死んでほしい気持ちを形にするたびみんな死んでほしいとますます思った。

 今月の交通標語:飛び出すな 悪意は急に止まらない ぼくらは走り出したレミング遥か未来希望見据えて振り向かずにまっすぐ恋に落ちてくよ貧乏だし

「あなた、おかしいよ」

「貴様の方がおかしい。しおらしいフリするな気色悪い。貴様が言うと何もかもがウソくさい。生きてるだけで周りの人間を傷つけ踏みつけ迷惑かけまくって、自分だけはぴんしゃん過ごしてるゴミのくせして、オレに話しかけてくるな。半径三キロくらいはオレに近寄ってくるな」

「あなたに言われたくないし、先に話しかけてきたのもそっちなのに?」

「は~~正論を突きつけられると人格攻撃に走って本質から目を背ける典型的なチキンめ、一生逃げていろカスが。他人を踏みにじってる自覚のないヤツが一番タチ悪いのだ、そしてオレにはあるけどあいつには無いし、あいつに育てられた貴様には勿論あるわけが無い、だいたいこの前は貴様から絡んできただろうが、ボケてるのか」

 やはり当然相変わらず、いつにも増して頭が狂っていたルヅは自分が何を言ってるのか分かっていなかったが、そんなものをいっぺんにぶつけられたユコも、いいかげん人間不信になった。

 自覚があろうがなかろうが、友達の死んだ弟を悪く言うなんてひどかった。

 あまり口喧嘩が得意でないユコは、冷たい目をして雨の向こうを見つめて、半分くらい太陽のことを考えていた。太陽がなんで光ってるのか分からなかった。空がなんで青いのかも知らない。ただ、誰かをボコボコにぶん殴りたかった。トランを抱いたまま、傷だらけの指を自分で咬みながら、彼女は太陽より明るくて空より綺麗な光を探していた。

 なに言ってるのかよく分からない。

 二人とも甘い卵焼きが嫌いではなかった。

 バスが来ねえ。

 けむい。

「ほんと放っておけよ。救えねえ。今までずっとバラバラで生きてた奴らが、いまさら死んだところで、残ったのがひとりぼっちなのは変わらんだろうが。中途半端に突っつくくらいなら、いっそ追い込め死ぬまで追い込め、それが優しさというものだ」

 もう彼は顎関節に油をぶちまけたみたいだった。

 そんな中、緊張気味の面持ちをした若い会社員風の男が、さっきルヅが捨てたタバコを拾い上げる! そしてルヅに、落し物ですよと言って(どうせなんかの受け売りだろ)それを差し出した!

 ルヅは軽く会釈して落し物を受け取って、また地面に落とした。

「ひとりぼっちって、あなたキリウの友達でしょ。ていうか私は?」

 困惑した会社員が何か言おうとしていたが、つっかえて言えそうもないので、ユコは割り込んだ。

「はん。何て答えてほしんだゴミクズが? 自惚れんなよ、同情だけで生かされてる犬猫同然の拾われ物のくせに。お前なんか、あれの長~い一生の一瞬の思い出にすぎんのだ。あの薄情者が、弟以外の奴を人間扱いしてるとでも思ってるのか。悪魔がどれだけ孤独に生きると思ってやがる、これだから人の気持ちがわからんゆとり世代は」

「ほんとよく喋るね、適当に他人のこと想像して、デタラメ言ってる。あんた悪魔でもなんでもないし」

「そりゃ自虐か?」

「あんたより私の方がキリウのこと知ってる」

「は?? あいつがオレとず~~っとクズどもの取り立てに駆けずり回ってる間、ほったかされて泣いてた貴様がか?? ギャグがサエてるね。あ~やだ。なぜこんなことでそんなムキになるんだ。つまらん意地張ってんじゃねえよ。やだもう。これだからベタベタした田舎者はほんとめんどくせ」

 そこまでだった。ユコが逆さに持って振りかぶった傘が、ルヅの後頭部をストライクしようとした。彼はそれを簡単に掴んで受け止めて――ザコめと笑おうとした直後、側頭部にヘッドバットを食らって吹っ飛ばされた。

 何かが砕け散る幻聴がこだました。

 ひん曲がった傘を足蹴にして、頭のネジが壊れたユコが叫ぶ。

「あんた、もうキリウに近寄んなよ、もしあんたがこれ以上キリウを傷付けたら私が殺してやる!!」

 アホ面でバスを待ってる奴らが一斉に粟立つのも無視くれて、彼女はトランを片手で抱えなおすと雨の街へ飛び出して行った。

 その背に向かって、頭のネジが元々壊れてるルヅが目を血走らせて叫び返した。

「息巻いてんじゃねえよ偽善者! 図星だからッて暴力に走りよる、ほら貴様は、そ~いうクズだろうがクソ女あ!!?」

 八つ当たりで人を殺しそうな顔をした彼は、次の瞬間、どこからか取り出した拳銃を頭上に向けて発砲していた。それは、周りの人間が散り散りに逃げていくには速すぎた。そいつらを見送らず、さらに三発撃って屋根を穴だらけにして、時刻表を蹴りまくっていた。