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78.地獄のシャイボーイ

 ユコは日光にきらめく水のしぶきを見ていた。水が飛び散る端っこには、泥にまみれたトラン。昔、手ですくった水を宙に放ると丸くて綺麗だと気付いて、トランが見つめる前で延々と繰り返していた。バケツの水を幾度となくカラにした後には、靴がびしょ濡れになっていて、日陰が冷たかったことを覚えている。

「青い乳酸菌飲料ひとつ作るにもワケがあって、そして元手が要るの、悲しいくらいに。でもそれって、金が無くて弁当を万引きしたガキに、買わなきゃあっためてもらえないだろって……言うようなものじゃないか。知らなくて損することが、いっぱいあった。俺が飼ってた犬を食った奴のことも。なぜならロリコンやろーの隣に弟を埋めなければならないから。その気持ちが毛糸玉をころがしてたってのが、苦しくて」

 引っくり返ったままずっとよくわからないことを喋っているキリウ少年に、ユコは彼の服の上からホースで水をかけていた。ホースは、水道で身体を洗ってた若者にポッケの小銭をぶつけて貸してもらったものだ。

 ――ものすごく寝癖が付いた頭に虚ろな目をした全身血塗れのキリウが、登校中の小学生にボールペンのキャップをせびっているのをユコが見つけたのが、今朝の話である。しかし小学校がボールペン禁止であることをキリウが知らないはずがない。ただならぬ様子にユコがわけを聞くと彼は、弟が電波塔から飛び降りて自殺したと供述して、大量のフラッシュメモリを吐いてぶっ倒れた。

 びっくりしたユコは、とにかく彼が血で汚れているのをなんとかしようと思い、この公園までキリウを引きずってきたのだ。

「なにが人間だと思う? 料理の腕をけなされたらつらいか?」

「あなたに分かんないことが私にわかるわけがないよ。でもそれはきっとつらいよ」

「俺は……」

 キリウは、サボテンとコミュニケーションをとった方が人間の感性は豊かになるとでも言いたげな様子だった。

「サボテンとコミュニケーションをとった方が人間の感性は豊かになると思う」

「そうだね」

「頭が……痛い」

「どうしたの?」

「頭のネジ、あいつに、締め直してもらったとこが」

 ユコが水を止めて見ると、ようやく起き上がったキリウは、コンクリートに座り込んで頭を抱えていた。服についた血の染みは半分くらい薄れていた。しかしきれいになった顔は、どこか青白くて血の気が無い。

 しばらく黙ったのち、彼はユコの手からホースを奪って、自分で自分の頭に水をかけ始めた。

 やめさせようとしてユコは、キリウが泣いていることに気付いた。でも風邪をひくといけないので、やっぱりユコは勝手に水を止めて、抗議を封殺するようにキリウの頭にタオルをかぶせた。タオルは買ったものだ。同上の方法で借りようとしたら、血がつくだろとブーたれられて買い取らされたからだ。そしてキリウがほげほげ言うのを無視して、無理矢理頭を拭き始めた。

 自分の何十倍も長く生きてる人に対して、自分の何百倍も色々なことを経験してきたであろう人に対して、簡単に同情を示せるか。少なくとも、好きな人が死んだことのないユコには示せなかった。ふわふわ飛んできたトランは、そんな人間の取るに足らない感情を興味なさげに見下ろしていた。

「私にできることある?」

「話、俺の話をきいてください」

「うん」

 けれどそれからキリウは声が詰まってしまったらしく、膝に額を押し付けて、おとなしく髪を拭かれていた。

「頭だいじょうぶ?」

 ユコから尋ねた。頭痛の話だ。キリウは無言で首をひねっていたが、ふいにユコの手の上に自分の手を重ねるようにして固まった。そのまま彼は、まるで頭を潰すか引きちぎるみたいに、冷たい手に力を込め始めた。

「首とれる! 頭もげる! イヒヒヒヒヒ!」

「もげないよ! 暴れないで!」

 もとより赤い目を真っ赤にして笑い出した少年は、ぼろぼろ涙をこぼしていることを除けば妖怪のようだった。突然の奇声に、水鉄砲を抱えて様子をうかがっていた子供たちが散り散りに逃げていく。思わずユコは彼の背中を膝でどついてしまった。

 この日のキリウはいつにも増してぶっ飛んでおり、ユコに強い憐憫の気持ちを抱かせた。

「わからないんだ! 俺には生首のプールで泳いだ経験があるし、それを生かしていきたいとおもってるのに……」

 彼はまた意味不明なことを叫んでうなだれていた。

 でもユコはキリウのそういうところを、彼のシャイなハートのハイな顕れであると思っていた。周りの人はキリウのことを変態だとかハイエナだとか発泡スチロールだとかって言うけれど、彼は本当は何かを伝えたいのに、心の中のいろいろなものが邪魔して、うまく言葉や行動にできなくてめちゃくちゃになってしまうだけ……そんな甲殻類なのだと思っていた。

 それが正しいかどうかは、本人に聞いたことがないのでユコには分からなかったが。

「終わったよ。早く帰って着替えた方がいいよ」

「ユコ……ありがと」

 ただ彼は、ユコが差し出した手をとると、小さな声でそう言った。まだ水が滴る服もそのままに、充血した目をこすって立ち上がる。そして、小銭をいじりながらずっとこちらを眺めていた若者と、遊具の陰から顔を出している子供たちに向かって、軽く頭を下げた。

 しかし。

 足元をうろつきだしたトランの大きな一つ目を見て、彼はふと何かを思い出したようだった。

 ――水鉄砲のマガジンを御旗にきゃあきゃあ押し寄せるチビども。人数を考えれば自分が先だろうとカンフーの構えで主張する薄汚れた青年。もみ合いから追い出されながら、薄赤の染みが残ったシャツの胸元を掴んで、やがて真顔でぼそっと弟の名前をつぶやいたキリウが、ユコは少し怖かった。そんな彼は、ユコが見たことない目をしていた。