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73.やり残した日

 どうして泣いてるの?
 ――D67A 雨の夜のゴミ捨て場の人形

 

 明後日の始発で出ていくとジュン少年がこぼしたところ、彼の兄は今朝からかれこれごじゅっかいくらい、「寝てるし」「起こすなよ」「起こしたら死ぬ」といったひとりごとを壁に向かって呟き続けていた。まだ昼だ。ジュンが身辺整理を始めて、二時間くらい経って、昼食を作り始めた頃のことでもあった。

 その相手が壁じゃなくて、実はキリウの目にだけ見えているとかいう虫なのだと判明したのは、つい今しがただった。

「白くて三角で矢印みたいで、翅がはえてて、複眼がもげそうで気持ち悪いやつ」

「どうやらぼくの足元にいる赤いカマキリのことではないらしいな」

 キリウにも変なものが見えてるらしいと分かった時、ジュンは一瞬、同じものが見えるようになったのかと期待してしまった。だがキリウの言う虫の特徴は、ジュンもまったく知らない奇妙なものだった。

 ジュンは、もしかして兄は重い眼精疲労を患っているのではないかとも心配したが、しかしキリウは昔から体だけは異様に健康だし、ジュンにかまってほしくてデタラメを言うような奴でもなかった。そんな彼の話を否定することは、自分自身を否定することのようにジュンには思えた。

「ぼくには見えないよ」

 そう告げられたキリウがとても落胆していた時、ジュンは、実は本当にそれ――同じものが見えることを期待してたのは、キリウの方だったのかもしれないと気づいた。

「でも、見えてるセカイを愛することだよ、キリウ。そこで生きてくんだから」

 これは自分と他の人が見てるセカイが違うと気づいたジュンが、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉だ。キリウはいまいち納得がいかなそうな顔をしていたが、いつか分かってくれるだろう。

 ジュンはできあがった昼食を、フリーペーパーの隙間に白い虫とやらの絵を描き始めていたキリウに差し出した。これはジュンが、兄弟だというのに気を遣っているのかあまりメシを作らせてくれないキリウを押しのけて、作らせてもらったものだ。

「ちょっとアレかもだけど、食えると思うよ」

 そして無意識的に顔を背けたジュンの横で、メシを一口食べたキリウがぶっ倒れた。顔を背けたくせにびっくりしてジュンが揺り動かすと、キリウは冷や汗まみれの真っ青な顔で親指を立てて、言いづらそうに呟いた。

「前より……ひどくなった」

 そのまま昏倒したキリウを座布団の上に投げて、そこらに放られっぱなしだった黒い箱を彼の頭にかぶせて、ジュンは逃げるように街へ出た。

 そうだ売血だ! 売血をするのだ! 青春は売血で終わるのだ。そう思ったジュンは施設へ向かった。施設とは、色々と難しいことを公的なツラしてやってくれる場所だ。

 その施設の売血についての部門に関して、主な利用者は貧乏人だ。借金取りに引きずられてきた債務者が、血を現金に替えさせられていることも多い。この街ではそれを強制されただとか、抜かれすぎて死ぬとか、そういう事故はあまり気にされないようだ。

 病的なインテリアセンスをした待合室を過ぎ、ジュンが担当の男に問診票を渡すと、渋い顔をされた。

「ついに自分の血を抜くの? そこまで食い詰めてるの?」

「なんですか?」

「まあいいけどね。イメチェンなかなか似合ってるよ、あんなに髪を切るの嫌がってたくせに。ずっと顔見せないから、死んだのかとばかり」

 どうやら担当者は、ジュンをキリウと勘違いしているらしかった。

 ジュンは、意外なほど皆にキリウと間違えられることを、とても不思議に思っていた。自分とキリウが同じ色の靴を履いていたことなどないのに、だ。この街の人間はどいつもこいつもジュンを見るなり、引きつった顔で逃げていったり、こそこそと噂話を始めたり、友好的に近づいてきてサイバー攻撃に誘ってくれたりする。

 双子の弟であることを伝えると、やはり男は他の人と同じく変な顔をして、ジュンの腕に針を刺した。

「ほんとに? すまないね。まあ、弟ならお兄さんに言っといてくださいよ。いくら衛生面に気を配ってくれても、外で抜いてきた血液を持ち込むのは、やめてくれって……」

 兄が一体何をしてるのか、ジュンは不安になった。

 キリウは電波塔の監視をするようになるまでは、ずっと借金取りをしていたと言っていたけれど。詳しいことは聞きたくなかったのでジュンは適当に相槌を打ったが、男はそれからジュンの血を抜いている間、延々とホモの彼氏の悪口を言っていた。

 そしてジュンが受付で現金を受け取ってる時、ふと横を見ると、彼が帰ってきた日に駅で出会った怪しい大人が、乱暴に書類を書き殴っていた。足元に酩酊した女を転がして……。

 そいつと目が合う前に、ジュンは施設を飛び出した。

 気が付くと彼はジャンク通りを走っていた。宙に浮かぶ無数の透き通った目玉が、ジュンの身体を前から後ろへと抜けていく。薄ぼんやりした空を進むのは巨大な円柱だ。円柱から滴る滴が、昼間の流れ星となって頭上に降り注いでいた。

 彼の目に映るモノは、気の持ちようで性質を変える。意識しなければ触れないのもそのためである。だから彼は今でもどこかで、それらが自分の無意識をネグラにしてる妄想に過ぎないのかもしれないと気にしていた。コランダミーの隣にいても、それを忘れられたことなどなかった。

 しかしそれでも信じられたなら、もはや何が何であろうと彼自身には関係なく、例えば目の前の建物が真紅のツタで覆われていようがいなかろうが同じことなのだ。

 目に映るものが全てであり、キリウもいつかそう思えたらいい。

 そうジュンは心の底から願った。

 ポストに激突して吹っ飛ばされてる間も願ってた。

 地面に叩き付けられたジュンは、にわかに壊れた身体を修復しようとして、しかし現実の痛みは久々で感慨深かったので、それはやめておき、うちに帰ることにした。

 彼が倒れ込むように帰宅した頃、キリウは頭に黒い箱をかぶったまま鉛筆削りに勤しんでいた。

「ただいま……。具合良くなったの?」

「おかえり。まだちょっと頭痛いかな」

 その黒い箱は、こないだジュンが蹴躓いたものだ。四十センチメートル四方くらいの大きさで、一面がフタとして蝶番で開くようになっているが、収納としての性能は疑問である。仮にインテリアだとしても、キリウのセンスを疑いたくはない。

 ジュンがそれをそのまま言葉にして尋ねたところ、キリウは貰い物だと連呼しながら笑っていた。

「あのさジュン、俺、電波塔の監視とかやめた方がいいのかな。借金取りに戻ろうかなって」

「は?」

 急に何を言い出すのかとジュンは疑った。ジュンから見ると、キリウは電波塔の監視のアルバイトを気に入っているように見えていたし、何か悪いものでも食べたのだろうかと。

「なんで?」

「わかんないけど……ジュンって料理だけはヘタクソだよな」

「え?」

 目が覚めるほど悪いものを食べたというのか!?

「借協行ってきまーす」

 それは借金取り協同組合のことだ。言い放つと同時に、キリウは軽やかに玄関から飛び出してゆき、集合住宅特有のそっけない階段の手すりに飛び乗って、そいつを軋ませてすごく遠くへ飛んで行った。黒い箱を頭に被ったまま。

 残されたジュンは、本当に困っていた。ふと机の上に残された白い虫のラクガキが目に入り、その影を自分の中に探そうとする。しかし身体の痛みに引き戻されて、身辺整理の続きをするべきだと思い出す。

 料理がヘタだなんてそんな、この世界の方がおかしくなってるのにな……肩をすくめて首をかしげた。少年!