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71.日陰者の歌

 オヤっさんが学校に呼び出しをくらったもので、取って代わって出向いて行ったキリウ少年が、すっかり日の暮れた街へ再び放流されてきた時のことだ。

「帰ろ、ユコ」

 その無理くりな保護者代理は、いくらか疲れた顔をしているよう、幼いユコには見えた。キリウはそれ以外に何か言うこともなく、ユコを倉庫作業用の台車に乗るよう促した。そしてポッケから小さなアメをふたつ引っ張り出すと、台車の上で膝を抱えたユコにひとつを渡して、もうひとつを包装紙ごと自身の口に入れた。

 無骨な台車は舗装といっしょにガタゴト騒いで、ひと気のない道を賑やかしていく。周りの土地より少し高い道だから、辺り一帯の解体現場を斜め上から望むことができる。けれどユコは、赤く腫れた指の付け根に目を落としてじっとしていた。

「オヤっさんって、脱サラでアメ屋をやってるんだよ」

 口の中をモシャモシャさせながら、キリウはオヤっさんの話を始めた。

「お店を持ってるとかじゃなくて、仕入れたり流したりっていうやつ。でも、こっそり自分で作るの練習してて、よくアメをくれるのはそのせい」

 身寄りのない子供たちの身元を保証してくれる奇特なボランティア――から、ほぼ足を洗った人。ユコはその初老の男のことを、キリウからそう説明されていた。

 ユコがキリウに連れられて初めて彼と顔を合わせたのは、この街に来て一週間くらいのことだった。それからごくまれに、キリウの仕事の都合で彼に預けられたりもしたが、正式に世話になることになったのは、ユコが学校に入るために必要な書類を揃える段階になってからの話だった。

 ついこの間のことのように思えるが、実際そうだ。

「最近の子供はアメをやっても食べてくれないって、気にしてた」

 どうりでオヤっさんは、たびたび近隣の人々から誘拐ジジイ呼ばわりされているのだ。

 ユコもアメを貰ったことがあったが、そもそも彼がアメ屋を営んでいたこと自体が、ユコにとっては初耳だった。単純にユコは、よく知らない大人から貰ったものを気軽に食べることができなかったのだ。昔、それをして、意地汚いだのさもしいだのと祖母から散々叱られたためだ。だがそれ以前に祖母は、人の好意をありがたく受け取れない者は地獄に落ちるとも言っていた。

 むずかしい。

 ユコにはどうすればいいのか分からなかった。それは手の中のアメに限ったことではなく、今の彼女の全てに言えることでもあった。

 ――胸の鼓動に耐えられなくなって、彼女はとうとう自分からキリウに学校でのことを尋ねた。具体的には、ユコが蹴って殴って椅子で叩きのめしてしまった相手がどうなったかとか、まだ泣いてたか……とか。

 しかしキリウは少し歩いて立ち止まると、ユコのぼさぼさ頭に手を置いて、アメをガリゴリ噛み砕いて言った。

「ユコは優しいね。よってたかって余所者つつきまわして、やり返されたらセンセに泣きつくクズども、俺だったらどうでもいいのに。でもはんぱに悪びれるなよ。この街のやつらは、そういうとこ見て蹴ってくるんだから」

 この時彼女は、実際のところ自分が本当に怯えていたのは、『誰かに迷惑をかけて怒られる』という一点だけであったことに気付いてしまった。だから優しいなんてウソだったとキリウに報告しようと思ったが、キリウはそれを知っている気がしたので、やめておいた。

 キリウの言葉はユコが気にしていた不安を払ってはくれなかったが、代わりに全く違うおかしな感覚を与えてくれた。それは真っ黒でありながらどこまでも透明で、優しくて暖かかくて、分かったふりをしてた他人の痛みとか、細かいことがどうでもよくなるようだった。

 ユコ十歳。菌類の持つ社会性を知らなかった頃の話である。

 再び台車を押して歩き始めたキリウは、涼やかなオレンジ色の空気に空色の髪を揺らして、鼻歌を歌っていた。ユコの知らない歌だった。