もどる TOP

62.屋上にて

 校舎の屋上で、ユコの後ろ髪にハサミを当てているキリウ少年は、この上なく、この上ないというのにさらに上機嫌そうだった。

「やればできるなんて嘘だよな、俺は絶対やらないもの。それに医者に、キミは頭悪いねって言われた、ゾウリムシ以下とかな。確かに頭使うと熱が出るけど……」

 勉強のことだ。キリウの弟は勉強ができたとかで、昔はキリウもずっと周りから、やればできると言われ続けてきたという。もっともキリウ自身にそんな記憶はとっくになく、彼の弟から聞いた話らしいが。

 一方ユコは、隅に転がされていた落書きまみれの椅子の上で、肩にビニール袋をかぶせられていた。

「あ、トラン、そっちは待って」

 耳元で素人にハサミを振り回されながら、彼女がぎこちなく制したのは、足元で『保護者会のお知らせ』を引っかき始めたトランだった。その隣には、引き裂かれヨダレまみれになったユコの通知表の無残な亡骸が横たわっている。

 しかし何かを受信したキリウが「断罪」とつぶやいたので、ユコはオーケーを出した。言うが早いか、トランはその紙切れにじゃれついていた。

「やーだねえ。この学校も変わっちゃった」

「キリウ、大人みたいなこと言ってる」

「事実さ」

 通知表の通信欄のことだ。くるった餓鬼どもを人間にしてやりたいという思いやりある人々の力で、ここ数年になってこの街には、外から教育委員会が入ってくるようになった。それ以来、各学校の通知表はどこも大幅に項目の充実が図られていた。通信欄もその一つだった。生徒たちの人間性の問題を保護者に事細かく伝え、改善を促すために。

 だが、そんなことはどうでもいい。どんなに親が社会のゴミだとしても、罪のない子供たちを悪い環境で育てるのはよくないというまっとうな意見なんか、昔からあった。ただキリウは、ユコの悪口をさんざ読まされて不愉快になっていただけだ。

 昨年度の当街キッズの識字率は五割以下……読み書き計算は大事……たんぽぽ……スベり続ける道徳教育……ハチャメチャな校風……ハサミを握る手に変な力が入らないように、キリウはしきりに呪文を唱えていた。人間の一部が刃物で切り離される。おだやかな風が、ビニール袋の端にたまったユコの髪の切れ端をさらっていく。良い天気だ。最高に切なくて頭が悪くなる。

 その時、金属板に体をぶつけたような鈍い音とともに、この屋上とそれ以外の空間とを繋ぐ階段の扉が開いた。そして一人の男子生徒が、息を切らして駆け上がってきた。

 そいつは二人のもとに寄ってくるなり、ユコが座っている椅子を指差して、泣きながら何か言い始めた。どうやらこれは、イジメっ子たちに投棄された、イジメられっ子の椅子と机のようだ。でも今は無理なのでユコがガンを飛ばすと、すごすごと去るしかなかったそいつは、屋上の向こうの柵にもたれかかって、また泣きながら吐いていた。

「キリウ、前髪は自分でやるから大丈夫」

「そう?」

 なぜか落ちている脂まみれのペンチをずっと踏みつけながら、キリウは少し残念そうに、でもでも声が飛び跳ねていた。

 ――キリウが、弟が帰ってきたと言いだして数日が経つ。その間にユコは、急にハシャぎだしたらしい彼の噂を、あちこちで聞くことになった。挨拶したら返事をしたとか、立ちんぼやってたらアメをくれたとか、無料でホッペにチューさせてくれたとか。どこ製のあれをこんな大特価で売ってくれたとか。

 ただでさえ影では、バッタかカッパか天狗のような扱いをされているキリウだ。本当は甲殻類なのに。カッパは甲殻類? 弟がどんな人かは知らないが、ユコはキリウが嬉しそうな顔を、ユコが見たことないくらいに嬉しそうな顔をしていることが嬉しかった。

 彼がハサミを鳴らしてイヒヒと笑う。

「我ながら最高の出来だ」

「そうなの? キリウも切ってあげようか、けっこう伸びてるよ」

「いいよ俺はほんと」

 梳かれて落ちた髪の毛を食べようとしていたトランを、ユコは軽く蹴っ飛ばした。別に生ゴミを食べててもなんとも思わないが、なんでか髪の毛は爪と同じくらいぞっとしたからだ。

 ユコがビニール袋を脱いだ頃には、そこにまとわりついていたものも、そこらに散らばっていたものも、ほとんどの髪くずが風に乗ってどこかへ消えていた。思ったより風が心地好かっただけで、最初からそんなつもりだったわけじゃない。

 遠い青空を見上げた時、唐突にユコは、前々からの疑問を口にしたくてたまらなくなった。

「キリウ、なんで私を拾ったの」

 どこかの路線の端っこの駅で泣いていたユコの手を引いて、この街に連れてきたのはキリウだ。キリウがユコをオヤっさんこと名義貸しの老人に紹介し、そのまま育ててくれたので、こんな親子だか兄妹だか友達だかわからない、ややこしいことになった。

 だが当の彼は、いつの間にかイジメられっ子の机に座って、きょとんとしたふうに使い終わったハサミの刃をバリバリ噛み砕いていた。

「ユコが帰りたくないって言ったから」

 落ち着きなく靴を揺らしながらそう答えたキリウは、なんだかとても年相応の少年というか、ゾウリムシ以下というか、子供のようにユコの目には映った。

「……キリウ」

「なに?」

「こ、この考えなし」

「え!? あ」

 気が付くとユコはキリウの胸倉をぎゅっと掴んでいた。掴んでから、彼女は無意識の中の理由を探した。たぶん、掴みやすいから掴んだのだろう。掴みたくなりませんか?

 キリウはびっくりしていたが、ユコもなぜか同じくらいびっくりしており、慌てて謝って手を放した。捨てられたキリウは、糸が切れたみたいにへたり込んでいた。彼は、胸倉を掴まれたり殴られたり勝手に保証人にされたりしたくらいでショックを受ける軟な人間ではない。しかし実のところ彼は、自分が誘拐をしていたことに、今の今まで気付いていなかったのだ。そこんとこに、今なぜか気付いてしまったからだ。

 彼の様子からそれを薄々察したユコは、そのゾウリムシ以下のシャイな少年を助け起こした。横でハサミの柄をかじっていたトランも回収した。そして、一番言いたかったことを思いだした。

「ありがとね。髪」

「ごめんなさい」

「謝んないでよ。私がごめん。嬉しかったよ」

 うなだれたキリウの伸びきった髪を手でくしゃくしゃやって、ユコはコンクリートの向こう側を見た。あの男子生徒がおっかなびっくり二人を眺めていたが、ユコと目が合うと、また彼は柵の向こうに胃液を吐き始めた。悪いことしたな。