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60.サメ

 ぴっぴっぴっぴっ この笛はね
 ぴっぴっぴっぴっ お兄さんにしか
 ぴっぴっぴっぴっ きこえないんです
 ぴっぴっ ウソぴょーん ぴっぴっぴっぴっ
 ぴ…… あっやめてくださ……ぴっぴっ……ぴ
 ひええ……なんですか……なんで怒るの……
 でも子供がやったことじゃないですか!?
 あっ返してください 笛をかえしてください
 えっやめて 吹かないで 吹かないでください
 ぼくの笛えええ 吹かないでええ あああっ
 ――D4E6 ホイッスルを吹く子供

 

「優しさってなんだろう」

 兄の頭のネジを締め直しながら、ジュン少年がそうつぶやいた。

「サメ肌?」

 弟に頭のネジを締め直されながら、同じ顔の兄はそう答えた。

「キリウ、サメ見たことないだろ」

 お金をくれるパパが欲しいとでも言いたげにジュンは息を吐いた。その時彼は、ひとり残してきた連れ合いと、蛍光灯の端っこのことを考えていた。

「痛っ、いたいいたいやめて」

 おかげで、ネジを締めすぎてキリウが痛がっていることが、しばらく分からなかった。脳の手術だったら死んでいただろう。

 みなさんはすでにご存知だと思うが、ジュンは魔法で心の壁を防音施工しすぎたので、蛍光灯の端っこのことを考えていると、周りの音がよく聴こえない。なぜそんなことになったかというと、他人の声に耳を傾けることは無駄な欲を生むからだ。彼はもうずっと、それをおかしいとすら気付かずに過ごしてきた。

 しかし、そうなってしまう以前のジュンしか知らないキリウは、違和感を覚えたらしい。なにせキリウは痛がるどころか逃げようとしたのに、ヘッドロックされてネジ締め続けられたのだから当然だ。この町の脳足りん共に頼んだならば、そんなこともあるかもしれないが……。

 そんな不名誉な見解をジュンは知る由もない。

 そのまま二人で仮想敵国の詳細な設定を練って、風船爆弾を製造して飛ばして滅ぼしていたら、夕方になっていた。

 ジュンがネジを緩めてやった頭だか首だかを、キリウはまだ少し気にしているようだった。気にしながら、今は押入れをひっくり返している。

「この話覚えてるか?」

 ジュンはそんな彼の背中――半透明のふよふよした生物がたかる、羽のない背中に向かって、思い出したように声をぶつけた。するとジュンが内容を話し始めるより前にキリウは、覚えてるわけないと笑った。

 確かにキリウは小さいころから脳の底に穴が空いているようで、カッパを見たとか、カッパとお茶したとか、友達がカッパに撲殺されたとか、そういう特殊な出来事以外はどんどん忘れてしまうところがある。もう何も覚えてないのだろう。初めて住所を失った日のことも。そんなキリウを見ていると、昔からジュンは、何一つ忘れていない自分の方が神経質でイヤな奴なのではないかと思えてならなかった。

 それからジュンはキリウの作業を眺めながら、コランダミーのことを除く全てのカードの中から、面白いものを選んでずっと話していた。旅のみやげ話はともかく、共通の記憶については三割(芥川刑務所の飯に混ぜられているテントウムシと同じ比率)嘘を混ぜて話した。キリウがどこまで覚えているのかよく分かって、楽しいからだ。

「それでわかったんだよ。麻酔だよ。にいさん」

「俺、サメじゃないよ」

「試してみろって。こども化学街でドボンした時のことを……思い出せよ」

「い、いやだーッ、おまえ、発泡スチロールカッターで焼き切った時もそう言ってた……」

 今のは散髪の話だ。

「よし! ほら。たぶんこれで全部」

 キリウが引っ張り出してきた最後の箱の中には、この町から離れる前にジュンが集めていたサンゴのかけらが、たくさん入っていた。それはまだ二人が海を見たことがなかった頃に、各地の怪しい出店で買い集めたものだ。キリウは今も海を見たことがないという。

 しかしジュンは、本当はサンゴを覆うガソリン色の氷が好きだったのだ。古くなったこのサンゴたちからそれはすでに失われて久しいが、もしかしてそれも、ジュンにしか見えないものだったのかもしれない。意外と長生きしてても気づかないことってたくさんあるんだ。

 そのようなものばかりではないが、ここに並んでいる箱全てが、かつてのジュンの収集物だった。帰って来るかもわからなかった人間がこの街にいた証が、どうやらどれもこれもパピプひとつつかない綺麗な状態で保管されていたのだ。部屋の一角を埋めたそれらを端から開けて、呆れたつもりでやっぱりジュンが驚くと、色違いの兄は恥ずかしそうにそっぽを向いた。

 そんなものを見てたら、ジュンのノドに小さな歯車が込み上げてきた。

 違う。それは金属イオンの不足、もしくは切なさに因る幻覚だ。どちらにせよ金属イオンの不足が原因だ。現実のことではない……本当は歯車なんてものは……いや違う。これは幻覚なんかじゃないと信じ続けて、パスできないまま続けたドリブルじゃないか。これが幻覚だとしたら、お前らが読んでるこれも全部幻覚なのに……。

 吾輩もネジを締められたいものです。ジュンは勢いよく歯車をひとつ噛み潰して、座り込んだままキリウを見上げて叫んだ。

「この話覚えてるか!?」

 そして今度は、覚えてないと言われる前に、ジュンはキリウの脛をひっぱたいた。その瞬間、白い光とともに乾いた音が弾け、キリウは口から万国旗を吐いて卒倒した。キリウがひっくり返ったところにあったいくつかの箱が潰れて、サンゴの亡骸やサメの歯、バネ・豆電球・ボルト・ナット・小さなレンズが床(たたみ)じゅうに飛び散った。

 ジュンはキリウの意識が無いことを確認する。行き場の無くなった手が震えている。いつの間にか冷や汗で、羽のない背中が冷たくなっていた。

 なあキリウ……この世界には白い花がたくさん咲いてるんだよ。