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59.ジュン少年とコランダミー その7

 首に下げた細い革紐の先で、列車とともに揺れるそれはガラスの差し歯。握り締めたまま眠っていたら、手のひらが凹んだ。

 目を覚ましたコランダミーが隣を見ると、緑色の毛並みのオオカミ人間が、古びた小銭入れをいじくり回していた。それはコランダミーのものであるが、どういうことだろう。

「ああ。おはよう。お嬢ちゃん」

 コランダミーと目が合うと、オオカミ人間は舌なめずりしながら挨拶をしてきた。尖った爪の生えた手では南京錠のついた鎖まみれの小銭入れを開けることができないらしく、挨拶しながらも鼻をフンフン鳴らして、手元で格闘を続けていた。

「カギがないとあかないよ」

「そうみたいね。でもアタシ、ガードの固い子って好きよ」

 オオカミ人間はやせ細っており、あばらの浮いた男のような体つきをしていたが、口調はわざとらしく女じみていた。

 しばらくコランダミーが彼女の作業を黙って見つめていると、彼女は自分のこれまでの人生を語って聞かせてくれた。

 ある動物園の地下研究所で夜な夜な行われているという、動物と人間のハーフを作り出す実験のこと。その被検体として、絶滅寸前の緑色オオカミも遺伝子保存の一環で選ばれたということ。実験は成功し、たくさんのサンプルが生まれたということ。その中に自分もいたということ。オオカミ語と人語をあやつるバイリンガルルルルになるのは簡単だったということ。いろいろ悩んだ思春期のこと。しかしある日、研究所の貯水槽に溢れんばかりのジューシーな肉汁が混入して、その香りに彼女を含む肉食サンプルが次々と発狂。シャワーを浴びた研究員を八つ裂きにして食べ始めたこと。猟銃で撃ち殺される仲間たちを尻目に、命からがら脱出したこと……。

 話が終わる頃には二駅を通過していた。

「で、今は食うにも困る生活ってワケ。ずっと世話してくれた研究員さんのモツを撒き散らしたあの時が、アタシの人生で最後の腹十分目だったのかもしんないわね」

 彼女はフサフサの顔で自嘲したように笑った。財布を覆う鎖は引っかき傷だらけになっていたが、壊れる気配はまったく見えなかった。

「大変だねえ」

「やーね、同情引いてるみたいになっちゃったわ。ゴメンなさい」

「ううん。たのしかったよ。緑色できれいだね」

 コランダミーがにこにこしていると、オオカミ人間は荒く息を吐きながら毛づくろいを始めた。照れをごまかしているのだ。本当は、緑色の毛の向こうはピンク色になっていた。

「ガルルル。フフン。でも……アンタもしかして一人なの? ついつい長話しちゃったけど、ここ、アンタの連れとかいないの?」

「ひとりだよ!」

「何それ! アンタこんなちっちゃいじゃない。周りの大人は何やってるのよ」

「あたし大きくならないもん」

「何それ!?」

 オオカミ人間の手元の財布に、興奮した彼女の歯の隙間から滴るヨダレが染み込んでいった。しかしコランダミーは、飛び散る獣臭さに気付いてすらないのか、頑張って何かを思い出そうとしていた。蛍光灯の端っこのことを考えながら。

「えっと、『――誰もずっといっしょにはいられないなら、ぼくたちは思い出を作るために生きてくんですね。でもそれって実はみんな同じなんだって、ある時気付いて。体質については色々言われましたけど、全てを思い出にしてきたと思い込んでいたぼくが、誰かの思い出になる日だって、とうの昔に決まっていたわけです(苦笑)』」

 頑張って読み込んできた甘い記憶は塊のまま吐き出されたのだった。

「……何それ?」

「ジュンちゃんが『消えたあの人』のインタビューで言ってたよ」

「誰それ? 男?」

「ジュンちゃんは男だよ! インタビューしてた人も男だよ!」

 おおっとここでオオカミ人間選手、頭を抱えた。その理由をコランダミーは知っていたが、特に何かしようとはしなかった。自分は質問の答えを全うしたと思っていたからだ。そして蛍光灯の端っこのことを考えていた。

 それからコランダミーは、鞄を漁ってお菓子を取り出した。最後にジュン少年のために選んだ箱から、一つ貰っていたやつだ。でもオオカミ人間が物欲しそうに眺めてくるので半分あげた。なぜ半分かというと、一つしかないからだ。

「モグモグ……ありがと、アンタいい子ね。……なんでもいいけど、小さい女の子一人ほっぽっていなくなる男なんて、犯罪者よ。ロリコンよ。気を落としちゃダメよ。そんなヤツ、地獄でも牢獄でもアスファルトの中でも、どこへでも行っちゃえばいいのよ」

 蛍光灯の端っこのことを一瞬忘れて、彼女のその言葉を耳に入れた時、ふとコランダミーは、目ん玉が熱くなるのを感じた。

「ジュンちゃん、地獄に行くの?」

 自分で口に出して確認するとその感覚はより一層強くなり、地獄の存在を考察したのち、コランダミーは涙が溢れ出したことを理解した。地獄にはチキン南蛮がないことを思うと、ガラスの差し歯みたいに透明なものが、かじりかけのお菓子の欠片と一緒に、膝の上にぽろぽろこぼれていった。

「ぴーぴー」

「あ~~も~~、泣いてんじゃないわよ~~、地獄行かないわよホラ、地獄なんてない。どこにあるっていうのよ。ほら、そうよ、アスファルトの中にきまってるでしょ。ほっときゃ勝手に隙間からタンポポみたいに生えてくるわよ、アンタのジュンちゃんが。バカじゃないの~~やだ~~」

 緑色の毛並みのオオカミ人間は、コランダミーが泣き疲れて眠るまでそばにいてくれた。

 財布はとられた。

 こんな人形少女と次に巡り会えるのはいつのことだろう。まるで昨日のことのようなのに。