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56.最終列車

 かつては『番号つきの路線』と『番号なしの路線』があった。

 『番号つきの路線』はレールに小さく番号が刻印されているので見分けることができたが、いったいいつ誰がその番号を決めたのかは、誰も知らなかった。そもそも、路線自体がいつ頃から存在していたのかすら定かではない。ただ、違う地域の路線同士で番号の重複が見られることは無かったと言われている。

 反面、『番号なしの路線』は歴史的経緯が明らかなものが多い。完全に放棄されてしまったものを除けば、何のために誰が敷いたのか、現在誰が管理しているのかもたいてい調べがつくのだ。

 しかし『番号なしの路線』は人間の手によって増え続け、やがて独自に番号やマークを刻んだ路線を作る者が現れた時、そこにあったはずの何らかの法則は崩壊した。『番号つき』とか『番号なし』とかいう分類方法はその時一緒に消え、マニアの間に残るのみとなった。

 今では爆発したみたいにデタラメな路線が世界のそこらで脈打ってる。

 日陰者の街に繋がる唯一の路線は、通称『マカジマ線(番号があった頃の189965線)』の端っこの駅から取ってつけたように細く伸びていた。この街ができた頃に敷かれたものだが、当時から他の駅が増えることもなく、相変わらずこのゴミ箱にだけ繋がる地獄だ。もっとも、そういった無計画な路線はたびたび見かけられるものであったが。

 ――もともと少ない列車の本数がさらに減った夜、キリウ少年が駅のプラットホームの線路上で消毒液を撒いていると、ルヅが向こうから歩いてきた。奴は銃を入れたケースとケーキ屋の箱を持っており、相変わらずのスーツ姿で、黄色い線の内側からキリウを見下ろして言った。

「何してんだ雑魚」

 列車を降りてから一時間はそこのベンチで寝てた奴に言われたくない、とキリウは思ったが、実際は挨拶してしまった。彼にしか見えない白い虫が、消毒液を浴びてそこらじゅうで引っくり返ってる真ん中で。

「お久しぶりっス……」

 それを聞いたルヅはしばらく黙ったのち、急に近くのゴミ箱に蹴りを入れた。薄い金属板が凹む音でキリウは反射的に少しピヨったが、ルヅがよく分からない顔で睨んでくるのでやめて、マスクを取って笑ってごまかす。

 しかしルヅはもう一度ゴミ箱を蹴飛ばして凄んできた。

「やめるなよ。貴様のつまらん人生それでいいと思ってるのか」

 この時竦んだキリウの口をついて出かけたピヨピヨを止めたのは、キリウの中の誰かだった。そいつは、ここで鳴いたら負けだと言った。誰だって逃げたい気分になることはあるだろうが、人間として生きていきたいのなら、生きていかなくてはならないのなら、少なくともその先にピヨピヨ鳴くような弱いものを選んではならない。そうささやいた。

 だからキリウは無理矢理ルヅから目を逸らし、本来自分がすべきことを考えた。ここで負けたら俺はルヅ以下だ。人間関係は欠陥住宅みたいなもので、住んでみるまで何が起きるか分からないし、気付いた頃には手遅れになってる。

「はい逃げた。あ~やだやだ。そうやって一生逃げてろや女々しいカスめ」

 ルヅはいつも、笑ってるのか怒ってるのか何とも思ってないのか微妙に分からないような、しかもそのうえで冷たさを感じさせるような声色を作って喋る。それは意図的なものだが、実際には身体に染みついてしまって、もはや変えられなくなっているところもあるのだとキリウは知っていた。けれどルヅが自分と接する時のそれがどちらなのかは判らなかった。

 ヒヨコを数える。プラットホームによじ登る。ヒヨコを数える。長靴はそのままに消毒液とアマガッパと手袋を捨てる。ヒヨコを数える。売店の売り子の白い頬を何度か引っ叩く。ヒヨコを数える。歯に衣着せぬ覚悟をきめて合言葉を唱えた。

 だが売り子が渋々渡してきたガソリン入りのポリタンクを奪い取ったキリウは、続けて差し出されたバリカンを見て固まった。頭を丸めろということなのだろう。この売り子は、元野球部なのだった。仕方がないのでキリウはそいつに金を渡して黙らせたが、いつまでこれが続くのだろう……。

 そうして片手で持てないポリタンクの重さによろめいてる雑魚を見て、ルヅは再び、何してんだ雑魚と吐き捨てた。

 この男は二つの荷物を無理矢理片手に下げて、黒い巻紙のタバコに火をつけたところで、束ねた荷物の片方がケーキであったことを思い出したようだ。斜めになった紙箱の重心は明らかに本来の位置とずれている。

「これだから取るに足らんことを気にしてボソボソ言う神経質な奴は困る。これは不謹慎ケーキだ。これから先出会えるかも分からない幸せに期待しないために、今から祝っておこうというだけだろうが。実に切ない」

「は?」

「あ? なんだ貴様は。誰が貴様のような誠意のないカスに話しかけるというんだ」

「??」

 キリウにはルヅの言ってることが本気なのか冗談なのか分からなかったが、ルヅ自身もやはり分かっていなかった。ただルヅは、冗談かと聞かれたら本気に決まってるだろ頭の弱いカスめと答えるし、本気かと聞かれたら冗談に決まってるだろ空気の読めないカスめと答えるだろう。そこだけは決まっていた。生まれた時から。

 蛍光灯の光と、がらんどうの空間に響く風の音とが妙に冷たい。ただでさえ行き場のない人間が集まる街なのに、まだ行き場のない中年女が隅っこで丸まってる。

 ゴミ箱のひとつにガソリンを注ぎ始めたキリウの横で、ルヅがケーキだったものに自らとどめをさして、別のゴミ箱に押し込んでる。

 ふとキリウは、ずいぶん昔にルヅについた嘘を思い出した。自分はもともとミカンで、八百屋で売れ残ってブヨブヨしていたところを弟に買い取られて、人間にしてもらったという嘘だ。ミカンだった頃に防カビ剤をかけられてたから、ずっと歳をとれずに子供のままなのだと。

 キリウが永遠の少年であることをあまりにもルヅがバカにしてくるので、悔しくて勢いでそう言ってしまったのだ。言った後で、なんてアホな嘘をついたんだろうと後悔した。案の定、よけいにバカにされるどころか完全に無視された。

 それだけだ。

 そこの壁の真ん中で愚痴っているのは、満面の笑みを浮かべたカメムシだ。そいつは、俺は無実だ、悪気はなかったのだと必死で心を繕っていた。罰のない罪がジワジワと良心を殺してゆき、広がった傷口から飛び出すのは理不尽な憎悪ばかり。いっそ誰かに罵られたらとも思うけど、本当にやられたらきっとそいつも殺してしまうんだろう。消毒のつもりで焼き焦がした傷が今日も臭い。

「あんたさ……」

 なんで今日は髪の毛がベタベタしてないのと隣の男に尋ねかけて、キリウは口をつぐんだ。こんなこと聞いてもしょうがなかったし、なんでそんなこと聞こうとしたのかも分からなかったからだ。

 何も分からなかった。友達のはずのルヅが言うことも、電波塔も、目の中の白い虫も、どんどん傷が増えてくユコも、自分がしてることも。ただひとつ、それらが分からないということだけが痛いほど分かった。それとも、何か分かってたことなんて、かつて一度でもあっただろうか。

 大人になれたら分かったのだろうか? この街に住んだりルヅを見たりしているとその可能性を忘れられたので、キリウは少し楽だった。

「ずっとムカついてたんだが、なんで貴様は年上の人間に『さん』を付けられねえんだ。トシをとれないことに甘えるなよ」

 釈然としない顔をしてタバコの煙を吐くこの男は、そんなこと知る由もない。

 線路に敷き詰められた白いがれきは、舗装された街中とむき出しの外界とを繋ぐものだ。ここを通って毎日誰かが来て誰かが去って行く。役所のてきとーなパンフレットによれば、この街から出て行く者よりも外から来る者の方が多いそうだ。

 そいつはおそらく正しいが、しかしこの街で死ぬ奴も相当に多いのだろうとキリウは感じていた。外から来て、あるいはこの街で生まれて、相応に死んでゆくのだ。

 空になったポリタンクを片手に下げたまま、彼はぼそりとルヅ様とつぶやいた。それを聞いて、この空間でただ一人該当するそいつはすごい顔をして咳き込んだ後、「気色悪い」と感想を述べた。

 駅全体が軋むような音を立てて入ってきた終電が、漂うタバコの煙を蹴散らしていった。生き残っていた白い虫たちは一斉に飛び立ったが、一部はそのまま車体と空気とに叩き潰された。最終列車が過ぎて、日陰者の街に本当の夜が来るんだ。

 消毒液とガソリンのにおいがする手を持て余して、何の気なしにキリウは、列車を降りた最後の乗客の顔を見た。