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52.カレイドスコープの中の地平線

 何かが壊れ始めていた。

 壊れつつあった。それはあまりに大きく、深く、しかしようやくヒトの目に映るところまで来たようだ。誕生の瞬間から死へ向かう命と同じく、あるいは死よりもどうしようもない混沌を目指して、ゆっくりと崩れ落ちてゆく何か。

 いつから? 生まれた時からだ! そして全てが終わる時まで。お前はそれをそこからカステラでも食いながら眺めててくれ。

 ――曇天の下を弱い雨が静かに降る中、キリウ少年は今日も今日とて電波塔を訪れていた。電波塔が何を意味しようが何を発信していようが、彼にとってはどうでもいい。ただ彼は生活費のために、得体の知れない雇い主へ電波塔のデータを送り続けているだけだ。それでこそ気兼ねなく携帯ラジオを壊せるというものだ。いやまたうっかりラジオ食っちまった朝食に、奥歯に引っかかったプラスチック片を噛み潰して通信機を叩く。

 そんな彼の耳元で、パチパチと乾いた音を立てて翅を鳴らしているのは白い虫だ。手早く作業を終えたキリウはそいつを追い払うと柵に腕をのせて息をついた。

 傘は持ってない。ずっと持ち主が現れない忘れ物の傘を盗んだやつを使っていたが、それはさっき線路の近くを歩いてた時に壊れてしまった。車両の窓から飛び出してた『止まれ』の道路標識にぶつかって。去ってゆく列車の尻に向かってバカヤローと叫んだその残響が、まだどこかに残っているような、キリウはそんな気がした。

 頭の皮膚がぞわぞわした。水を吸って重たくなった髪を引っ掻くと、隙間から小さな白い虫が数匹這い出てきて、飛び立ったそれは灰白色の景色の中に溶けて行った。

 こんな天気だからだ。電波塔の先から見下ろす世界はくすんだ白で塗りつぶされていた。晴れた日のまぶしさとはまた違った薄い光に覆われて、遠くの方では天と地の境が消えていて、迷子になりそう。周囲で不規則に奏でられる虫の翅音のパチパチも、不思議と遠く感じるね。

 むき出しの腕に絡む虫虫虫の黒い複眼の全てはどこを見ているわけでもなく、キリウを見ているようでもある。だが後者はキリウがシャイなゆえの妄想なのかもしれない。いつなん時でも、彼は誰かに見られているような気がしていた。ユートピア記念病院の窓際に座っていたあいつの背中を思い出せ。誰だっていつでも、殺される側にも殺す側にもなる可能性があることを忘れるな。悪魔は死なないわけじゃない。

 わかったら前のヤツを追って夜道を走れ。後ろのヤツに追いつかれるな。柵に手をかけろ。土踏まずが残ってるうちに。無数の電波が描く虹がお前を焼き尽くす前に。

 ナポリタンの皿をぶちまける時がくるんだ。

 それが意識的なものかどうかは定かでないが、数秒後にキリウは柵の上に電波塔の方を向いて立っていた。真っ白な金属でできた柵は雨に濡れて滑る。そんな彼のハートに白い虫が数匹ほどタックル。その時彼は何も考えていなかったか、背中いっぱいに受けた風の冷たさ、もしくはお客様のことを考えていた。そしてゆっくりと後ろに倒れ始めた身体が、一番直感に働きかける角度を得たところで、柵を蹴って落ちていった。

 ひねりを入れた四回転で着地をきめたセンチミリキロメンタルを他人に理解してもらおうなどと、キリウは思わない。

 ただ彼は、降り立った場所からロリコンとパルミジャーノん君の墓を振り返った。がれきに埋められた死者はやがてその形をなくし、色をなくし、がれきへと帰ってゆく。そんなことは誰だって知ってるし、『なぜ』を挟む余地もない。ねぼけてんな。がれきに穴を掘るための専用のスコップもホームセンターに売ってて、安定した産業のひとつ、それはもうインフラ株のひとつだ。

 靴の裏にがれきを感じていると、電波塔の上に立っていた時の、夢と現実の境があいまいになったような感覚が少しずつキリウの中から消えていった。ずっと降っていたはずの雨の生暖かさを思い出した彼は、ふと先程までの幻聴のようなものについて考えをめぐらせた。どうも、以前扇風機を食べようとして口をケガした時に、ヤブ医者が脳みそにつめこんできたトマトのジュレのせいかもしれない……それはあながち間違いではないけれど。

 カゼをひかぬうちに帰ろうと決めたキリウは、どこでもないどこかを見て、足元を這っている大きめの白い虫を蹴飛ばした。彼は、引っくり返ったそいつの近くに転がっていた何かを拾い上げて、ほんの少しの間不思議そうにそれを眺めていた。

 これが落ちるのと同時にヨーイドン。わかった? わかった。

 そして彼は手の中のものを空高く放り投げた。それはかすかに光沢のある、一片の真っ黒いがれきだった。