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51.ジュン少年とコランダミー その3

 ずっと雨が降っていた。どことなく空気が脂臭いのはなぜだろう。

 雨のせいか何なのか知らないが、コランダミーは顔の近くでプイプイ羽音を散らす小蠅に困っていた。ここはホテルの一室なのにだ。仮に雨のせいだとしたら、この虫たちは雨宿りをしているのかもしれない。そう思うと無下に潰すこともできず、微妙な心持ちの中、彼女は朝からオカルトグッズの手入れをしていた。

 オカルトグッズには日頃から優しく友達のように接することが大切である。信じることをやめたり、疑う心を持ったりして、こちらから裏切ったりしてはならない。コランダミーの空っぽな頭と心はその全てを実現し続けていた。

 砂鉄の砂時計、分解して乾いた布で優しく拭く。天体観測専用折りたたみ傘、普段使いの折り畳み傘が壊れたせいでやむなく昨晩使ってしまったので部屋干しする。ギャンブルに負けないはずのお守り、中を見てはいけないので袋のほつれだけ取る。人目をこれでもかと避ける化粧セット、べつにオカルトではないがコランダミーはそう思い込んでるので散った粉とかを丁寧に拭く。負けると死ぬトレーディングカードゲームのデッキみっつ、スリーブがスレてきたので先日買った新品と交換する。その他たくさん。

 全て片付け終えた頃には昼過ぎになっていた。カードのデッキ編成で頭を悩ませながら、ふと彼女はベッドの上で死体みたいになってる連れのことが気になった。

「ジュンちゃん起きて起きて」

 コランダミーが彼の顔をバシバシ叩くと、連れことジュン少年は目を覚ました。毎度のことながら彼はタヌキ寝入りみたいに寝覚めが良い。しかし彼はコランダミーを見て、次に窓の外の雨を見ると、いつの間にか身体の下に敷いていた布団を引っ張り出して頭からかぶった。

「起きて起きて起きて起きて起きて起きて」

 そしたら今度はコランダミーに、ベッド脇の机に置いてある電話の受話器でバシバシ叩かれたので、ようやく彼は起きる気になったらしい。

「おはよう。ミーちゃん」

 彼はコランダミーがそのまま渡してきた受話器と、追加で差し出されたルームサービスのメニュー表を受け取ることになった。

「ご飯食べていい?」

「ああ。いーけど、これくらい自分で注文しなさい」

「初めてのお店って緊張しちゃうよね」

「そうかもしんないけどさ」

 思わず噴き出したんだか苦笑いなんだかよくわからない薄笑いを浮かべながら、ジュンが代わりにオーダーしてくれてる間、コランダミーはにこにこしていた。そして昨晩この街に着いた直後に、商人たちから執拗なセールスを受けてうっかり購入した強烈な排水口フェチ本を開いた。

 鮮明な写真と共に、コランダミーの頭に著者の想いが流れ込む……有機物で汚すこと、洗剤で磨き上げること、ドメスティックバイオレンスのように引いては打ち寄せる悲しみが悦びにかわる。赤茶けてぬめってるフチ。微生物の命を感じろ。変異する遺伝子を呼びこめ。薬剤耐性を獲得しろ。トラップは地獄の窯の蓋だ。ぶちまけた塩素のにおいで目が溶けてゆく……。

 そうして心の隙間にカビがうつってしまった彼女が向こうでのた打ち回っているが、一方とっくに電話を終えたジュンは洗面所で鏡を見つめていた。指紋ひとつないガラスにきらきらした平面状の生物が這いずっている。それは彼とコランダミーのセカイに住む何者かなのでどうでもいいが、どちらかというと彼はおのれの寝癖のすさまじさに閉口していた。

 あんまりにあんまりなので魔法でととのえた。完璧だ。ちくしょう。

「それにしても小蠅が多くてやだな、脳みそにウジ湧きそう」

「こんな時に気持ち悪いこと言わないでよう……」

 ジュンは洗面所からローリングで飛び出して物影へ隠れてみたが、コランダミーが枕を抱えて真っ青になっていたのでやめることにした。敵の姿がないことを確認するとコランダミーにそっと近寄って、旅行者用の小さな霧吹きを両手で構えて噴射した。

「もう大丈夫だよ。おじょうさん」

「な……なおった! ありがとう衛生兵さん!」

 これも魔法だ。霧吹きの中身はただの水だが、しつこいカビを消し去る呪文をかければあら不思議、コランダミーの心がきれいになった。心がきれいなのは何より素晴らしいことだ、と自分の心が汚いことを気にしてるジュンは思っていた。心がきれいなやつは寝癖くらい自分で直すから。

 なんでもできるはずなのに、このみみっちさに皆さんはあきれるかもしれません。でも大切なことなのです。この少年が呪いじみた魔法のせいでつぶれないために心がけてることを三つほど述べます。一、どうでもいいことほど魔法を使え。二、どうでもよくないことにあまり使うな。三、欲は根っこから断て。

 おかげ様でつぶれてこそいないが、実際のところ彼はいらぬ欲を消すために自身の人間的感情を多大に壊してしまい、すでにそれ自体を認識できなくなっているところがあった。

 しばらくするとオカマくさいボーイがルームサービスを運んできた。そいつは頼んだ覚えのないケーキに蝋燭を立てるとカスタネットを打ち鳴らして、悪い意味で伝統的なダンスを踊った。それを終えると甘ったるい声でささやいた。笹焼いた。

「排水口マニアのための排水口ムックもご一緒にいかがですか?」

「ミーちゃん、間に合ってると言ってくれ」

「間に合ってるって言ってる」

 この伝言ゲームの無駄に気づかなかったボーイは、つれない返事にがっくり肩を落として去って行ったのである。

 さて、小蠅にたかられそうなヒヤヤッコにカエデ汁をかけてるコランダミーを見て、ジュンは何かを思い出した。そうだ。なぜ魔法で寝癖直すくせに霧吹きなんか持ってきたのか。

「ミーちゃん、ほら。殺虫剤」

 中身は相変わらず普通の水だ。しかしコランダミーに向かって吹き付けられたそれは周囲の小蠅を根こそぎ殺して絨毯に落とし、挙げ句その死骸を煙のように消してしまった。

 もちろん彼がまた適当に水に魔法をかけて都合を合わせただけである。どうせやるなら、蝿に全部外へ飛んでってもらうとか平和的な方法もあったはずだが、子供という生き物には残酷な側面があった。不必要な殺生に、当初の優しい思いはどこへやらコランダミーも目を輝かせた――雨宿りであろうと人様のヒヤヤッコに土足で立ち入る権利はない。

「わーすごいスプレー! でもジュンちゃん、あたしこのヒヤヤッコ食べて大丈夫? かかっちゃった」

「平気だよ、さっきミーちゃんにかけたやつと同じじゃないか」

「すごいね魔法みたいだね」

「魔法だからね」

 コランダミーはからかわれたと思ってにこにこしながら、スプーンみたいな何かでヒヤヤッコをつついていた。そんなのを横目にジュンはなんだかよくわからないゲテモノ料理を一口つまんで卒倒した。スプレーのせいではない。