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45.ユコの夢

 ひたすらハイ。朦朧とした意識は、狭くなった星空を三倍くらい美しく見せていた。

 大きな駐車場の片隅で、シャツの腹部を靴跡まみれにしたユコがぶっ倒れていると、横の植え込みに誰かの財布のようなものが突っ込まれているのが見えた。もっとも、眼球の表面でスパークする毛細血管と、頭の中で脈打つ色々なものに邪魔されて、それがそうだと分かるまでに数分を要した。

 頭をアスファルトに着けたまま、腕だけ伸ばして拾い上げたそれはとても軽い。片手でぞんざいに広げた全ての隙間が空っぽなのも、とっくの昔に知っていた。この街で中身の入った財布が落ちているわけがない。それこそ文房具屋のクーポン券から布団干し放題(一時間)半額券まで抜かれるし、財布自体をそのまま使い始める奴もいるくらいだ……。

 ただそこにあるから開けただけで、中身を期待してはいなかった。彼女のファンシーな道徳観は、他者から暴力でもって一方的に金品を奪い取ることをあまり好まない。いかにこの街の住人がでたらめで破滅的で空気読めなくて反社会的であっても、頑張って稼いだ日銭かもしれないものに手を付けるのはかわいそうだし、何より金が絡むと趣味が趣味じゃなくなる日が来ると思っていたからだ。

 しかし興味の無くなった財布を再び放ってしまおうとした時、彼女は定期入れの部分に挟まっていた使用済みの切符を見つけた。

 ユコはそれが切符であるということがすぐには分からなかった。ほとんど列車で街の外に出ようとしない彼女が、ここ数か月で切符のデザインが以前と変わっていたことを知らないのも無理はない。

 そんな少女がまれに切符を見ると、決まって脳裏をかすめる思い出がある。幼い頃に切符を拾った時のことだ。家に帰るのがイヤで駅前をうろついていたら、どういうわけか未使用の切符が落ちていたのだ。当時の彼女は文字がほとんど読めなかったし、列車の乗り方もよく分からなかったが、それが列車に乗るために必要なものであることだけは知っていた。周りの人の見よー見まねで駅員に渡しながら、拾ったものだとばれたら怒られるのではないかととても不安だった。

 発券番号の四つの数字を四則演算して十を作れなかったところで、ユコはそれを適当に引き裂いて夜風に流した。だけどいつかもっと頭が良くなったら、十を作れるようになるはずだと信じていた。彼女には些細な勘違いがたくさんあったが、そのうちの一つは『数字四つを四則演算すると必ず十が作れる』というものであった。

 ふいに遠くで誰かの悲鳴が響く。彼女は傍に転がしていた高枝切りバサミの柄を再び握る。柄だけだ。ハサミはついていない。先日の件の後、キリウ少年から在庫分を全て譲ってもらい、これは五本目にあたるやつだ。これも血と砂埃で汚れ、少し曲がってしまったが、軽くて丈夫でなかなか良いものだと思っていた。ネット通販の商品レビューに何か書いた方が、書くべきだ。質が大事だ。褒めるところは褒めるべきだ。ひっくり返ったままそんなことを考えながら、彼女は笑いが止まらなくなった。

 バラバラになった紙切れが本当に十を作れるものだったかどうかは、今となっては誰にもわからない。