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39.放浪

 頭の上のはるか高いところを飛んでいく巨大な骨精霊を仰いで、キリウ少年は声を上げた。そいつは、少年がその無意味な人生の中で見てきたどの個体よりも大きかったからだ。白い巨体が落とす灰色の影にあおられて、気がつくとキリウは背中を押されるように、ずっと歩いてきたこの線路沿いの道を走り出していた。

 全力で、本気で勢いをつけて跳んだならば、もしかしたらヤツに手が届くかもしれない。そう思ったキリウだったが、本当は届くわけがないと知っていた。けれど、いつから?

 彼が疑問に思い、足を止めてちらっと振り返ると、少し後ろを歩いていたジュン少年が無言でシグナルを出すのが見えた。行かなきゃ首を切るぞ、という意味だった。

 それを察するや否や、彼の手から放り出されたスポーツバッグがこれだ。去年、気の抜けた奴らから運び屋を請け負った時、キリウが中身もろともかっぱらってきたものである。軽くて丈夫で良い鞄をタダで手に入れることができたが、中身の白いやつ(消しゴム)はひどい安物であった。

 奴らも騙されていたのだろう。けれどあの消しゴムは、投げるとよく跳ねた。

 遠ざかってゆく兄の背中を目で追って、次にジュンはその鞄を拾い上げて、心の中で冗談だと付け加えた。首切りの件についてだ。なぜなら彼らは雇用関係にはない。あるかもしれない。無いと言われて無いと信じて、舌を抜かれた奴の話をしなければならない。

 全ては冗談で、このがれきの世界はでたらめで、キリウを契約ひとつで縛る自信もジュンにはなかった。

 彼らは責任を持たないゆえ自由だったが、未成年だったので、物理的には自由でないところがあった。それに、責任なき自由、先行き不安、根拠不明の孤独感、スタグフレーション……どれもこれも、ひとつのカステラを真ん中からちぎって分けたように、少しずつ違う影を彼らの心に落とした。

 二人はずっと一緒にいたが、考えることや感じることは幾分か異なっていたようだ。

 名前と生まれた日は? 出身地は? 人に言える趣味は? 自覚してる長所と短所は? 神様を信じてるか? 政治家に求めることは? スポーツの経験は? 小さな頃の将来の夢は? モグラになりたいって思ったことあるか? モグラになったらなったらでブタにいじめられるのか? ブタに噛まれたことあるか? 人と食事をする時に気を付けてることは? カゼをひくとどこが最初に悪くなるか? 好きな女の子の髪の長さは? 家を出たのはいつ?

 最後のやつと出身地は違わん。斜め前方、ちょうど視界の端に入る電波塔を特に気に留めず、ジュンはあくびした。彼のまっすぐ前では透明な空気の先に次の街の影が揺らいでいる。キリウの軽快な足音が拡散して消えていく。

 遠くの方から聴こえる列車の警笛は、たまたま運賃をケチって歩いている彼らを特に責めることもなく、無機的に響いた。がれきのかけらを蹴飛ばしながら線路点検用通路を練り歩くことは、人に言うと変な顔をされる話ではあったが、決して罪に問われるような行いではない。

 ここは社会の隙間というか、外側のような場所だ。そしてそれは、普段から自分たちが歩いている場所と何も変わらないよう、ジュンには思えた。

 ――上空の骨精霊が体節をよじって吠えた。低すぎる咆哮は現存する全ての生物の可聴域を下回る。しかし大気を伝わる凄まじいまでの振動が世界を叩き割る音は、地上の双子にもよく届いた。

 踏み切る瞬間を計りかねて走り続けるキリウの赤い瞳に、それはふと、何かに苦しんでのた打ち回る姿のように映った。そこから十歩先で、キリウは白い地面を全力で蹴って跳び上がった。痛いくらいの鼓動だけを引き連れて、重力を蹴落として、どこまでも透き通る風の中を舞い上がる。

 その先で伸ばした手が何にもかすりもしないのを、彼は自分の目で見た。

 着地した後、よくわからない脱力感にとらわれてへたり込んだキリウの元に、よくわからない笑顔を浮かべたジュンが駆けてきた。兄が息を切らしながら脛をひっぱたいてくるのを見て、弟は自分が笑っていることに初めて気づいたらしい。

 巨大な骨精霊はその体躯と同じくらいに白く輝く地平線を追いかけて、先が見えないほど長い羽を広げて、今日も明日も空を滑り続ける。