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38.ユートピア記念病院にて

「ヤ、君は先日のリンゴどろぼー」

 ひとりぼっちの病室に姿を現したキリウ少年を、或田教授は決して冷たくない声色でそう迎えたのであった。

「違います……」

 キリウは口ほど不愉快ではなさげな様子で帽子を脱ぎ、挨拶した。顔のついた変な帽子だ。そして、自分の後をぞろぞろとついて入ってきた患者たちにそれを放った。顔のついた変な帽子なのに、たくさんの手にもみくちゃにされてあっという間に見えなくなった。

 或田氏はベッドの上で不思議そうにその光景を眺めて笑っていた。ただし、幼少の頃に隣人が、真夜中に戸口で油揚げを貪っていたことを思い出して、勝手に笑っていただけだったが。

「この監獄のよーなところへはるばる来てくれたのは大変に嬉しいが、大所帯は勘弁してくれたまえ。何せ私は気が狂っているのだからね」

「前に入れられた時に作った、窓枠に座ってる神様を崇めるクラブの人らです。まだ存続してるみたい」

「なんだか分かりませんが、それでか。談話室の窓がいつも一部の患者たちの手で、必要以上にきれいに掃除されているのは。花が飾られているのはよいですが、そのために私が持ち込んでいる愛しの観葉植物たちを連れて行くのは、やめるよう彼らに言ってもらえないだろうか。何せ私は気が狂っているのだからね」

「無理です、もう見えないです。きっと今のぼくが言っても、通じないです」

 患者の群れが去って行った時、そこには八つ裂きにされた帽子が残されていた。あの神も同じだろうとキリウは思った。へねるぎーの叫びがこだまする時のこと。メンソーに覚えていた、といえた。

 骨が、がーてなるのが合図であった。

「見えていたのか。まったく君もか。ここは頭がおかしい者しか、いないというのか……」

 二人は孫と祖父の間くらいに見た目の歳が離れていたが、まったくの他人であった。見舞いは歓迎すると聞いていたが、実際に訪れてみると赤の他人では入れてもらえない様子だったので、キリウは、自分は蕎麦打ちに関して唯一の弟子であるとでたらめこいて入ってきた。

「それで君は、見舞いの者かね。私は気が狂っているのだが承知かね」

「営業です」

「嬉しいものだね。気が狂っていてよければ、ベッドの端に座りたまえ」

「いえ……はい。リンゴなしのアップルパイと、リンゴ味じゃないアメを持ってきたので、よろしければ食べてください。あとここに、下劣な女性週刊誌と、『アル中が見る近代農業』のバックナンバーが」

「これは! いなごパイといなごアメ」

「は」

「ハッカ味ではないのかね!?」

「ハッカーの味!?」

 キリウは或田氏の膝の上にぞんざいに置いた。墓の広告で注文したピザの箱を。

 その時ふと、彼は氏の枕元の机に置いてある黒い箱の存在に気づいた。箱は四角くてよいものだ。四角い箱には角が八つある。だが、白く綺麗な部屋に不釣り合いなそれは異様な雰囲気をまとっており、植木鉢にしては機能性とデザイン性が無視されているように見えた。残る可能性は貯金箱、豚のエサ、セロテープカッターのいずれかであった。

 それからキリウは脳みそが飽き、上着のポッケからデジタルボイスレコーダーを取り出して、そっと或田氏に向けた。

「ところで、なぜあのリンゴが市場に……?」

 そう尋ねた途端、みるみるうちに或田氏の顔から血の気が引いてゆくのを彼は見た。そして次の瞬間、引いたものが一気に脳へ流れ込んだようだった。ヒスを起こした教授は髪を振り乱し、眼球の毛細血管を破裂させ、顔も土気色になって瞬く間に老け込んだ。

 口角から泡を飛ばし、氏は震える声で叫ぶ。

「君もか少年! 君も奴らの仲間か! こんなところまで追いかけてきて、私をこれ以上、どこまで追い詰めるというのか! あまりにもしつこいようなら私にも考えがあるぞ、今ここで君をスコップで刺し殺し、顔面をグラインダーで粉々にして研究室の畑にブン撒いてやる! 司法なぞ怖くないのだぞ、何せ私は気が狂っているのだからっ!」

 まくし立てながら、或田氏は枕元に積まれた下劣な女性週刊誌のバックナンバーを次々とキリウに投げつけてきた。表紙に踊る蛍光ピンク色のどぎつい煽り文がキリウの精神を蝕む。天才児を作る方法、セレブの電撃離婚涙の真相、男性アイドル最新枕営業事情、となりの節約食材♪人肉をおいしく食べる十のレシピ――。

 しかしキリウは丸めた『アル中が見る近代農業』でその全てを叩き落として、一喝した。

「あんたは狂ってなーい!」

 赤の他人以下のガキに急に怒鳴られたからか、或田氏は驚いたようだった。穴の空いた風船のように怒りがしぼんでゆき、急速に脳内麻薬が引いてゆく様がその顔にありありと映る。ほんの一瞬前まで患者衣の上からも見てとれたフィールドワークで引き締まった背中は、見る影もなく縮こまっていた。

「……もはやあのリンゴに心などない。孫よりも大事に育ててきたのに(元より私に孫などいないが)、私はかわいい子供達に(私に人間の子供などいないが)自ら手を下し、文字通り心を奪ったのだ。そんなあの子達の抜け殻、死体のようなものだ、世に出回っているものの正体は……」

「あなたほどの変態が折れたんですか?」

「私は奴らの口車に乗せられたのだ! 奴らはあのおぞましい価値観を広めるため、教科書会社の買収やミュージシャンの抱え込みを始めとする数々の工作をすでに開始しているのだ。君はここのところ深夜の乱数放送や映像メディアのサブリミナルの頻度が増していることに気づいたかね? 街に溢れる監視カメラ、度を超えた食肉文化賛美、脂肪と糖分による子供達の洗脳。全て奴らの工作です。事態は想像以上に深刻……」

「ちょっと待って、それ以上罪のない俺を巻き込まないで」

 突っぱねるのが苦手なだけで、どうでもいいところで優しくするせいでキャパシティを超えた人付き合いをしてしまい、結果的に端から崩壊させていく。そんな人を見たことがあるだろうか。かつて該当する悪癖を持っていたことがあるキリウは、反省の結果、このような状況に於いてすこぶる冷たかった。今日のキリウの目的はあくまで或田氏の見舞いと、銀色のリンゴが持つ心の行方を知ること、それだけだった。

 教授はさめざめと泣いていたが、キリウが開封したアメの袋を差し出すと、一粒を手に取って包装紙ごと口に放り込んだ。そして丈夫な歯でガリゴリ噛み砕いたのち、ビニール片を口から出して枕元の黒い箱へ入れた。ゴミ箱だったようだ。

「……悪かったね。いなごアメもいいものではないですか……」

「義理の父に伝えておきます!」

「意味が分からんよ、君の言っていることは……。ところでいつまで録音しているのかね」

 咳払いすると、しょぼくれたままの或田氏はキリウが構えたままのデジタルボイスレコーダーを目で指した。入院生活で日焼けが抜けてきたその顔は、血圧の乱高下を繰り返した今、白と赤のまだらのようになっていた。

「これ、あげようと思って出した。使ってない。心は新品、身体も生娘」

「紛らわしい少年だ。恋心のように」

 キリウはふと、自分もここにいた時はこの或田氏のようだったのかと考えた。太陽光の波動の周期が粘膜をかゆくして、電波のわななきが鼓膜から全身に蕁麻疹を呼び覚ましていた頃の話だ。よく喋っていた。窓枠にはいつも、キリウに背中を向けたまま頭を抱えて座っている何者かが居た。そいつの顔を見れば自分は死に、そいつが振り向く時が自分の最期であると彼は確信していた。

 毎日を恐怖の中で過ごすことには耐えられなかった。無理矢理いいものだと思い込もうとして、崇拝することにしたのだ。

「暇が有り余っているゆえ、無暗にものをくれることはありがたいですが、一体これは何に使えばいいとお思いですか」

 キリウから手渡されたデジタルボイスレコーダーをもてあました様子の或田氏だったが、当の彼は床に落ちたピザの箱をじっと見ていた。それは窓際に供えようと思って持ってきたものであったことを、思い出していたのだ。或田氏の膝の上に置いたはずだったが、先程二人が暴れた際にベッドから滑り落ちてしまったようだ。

 中身は崩れているだろうが、窓際の者や盗み食いをはたらく他の患者は気に留めないだろう。そう思って彼は、まだ温かいその薄い箱を抱え上げた。そして病室の扉に手をかけ、言った。

「歌を練習するのがいいです。みんなうるさいから怒られないです」

「それはいいことを聞いた。歌は趣味ではないが、本日よりこれに私の肉声で以てノートを取ることにしよう。この病院ときたら、ペンの一本すらろくに握らせてはもらえないもので……」

「あんたの気が狂ってるせいだよ」

「失敬な!」