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37.テレホナーズテレホン

 路上生活者からドライイースト一箱と引き換えに譲ってもらった古新聞の束を上から読んでいたキリウ少年は、三日前の科学欄に目を落としたところで見出しに驚いた。

 それは、銀色のリンゴの一般流通が始まったというものだった。『鏡心(きょうしん)』と名付けられたその品種について、紙面では外見的な特徴と、観賞用品種であるということだけが述べられている。育種者は青旗連合枯山水大学、農学科、抽象的植物育種学研究室、或田哲生(あるた・てつお)教授。

 或田氏は確か、そのリンゴで植物に心が存在するということを実証してしまい、トラブルに巻き込まれていたはずだ。しかしこの本文には見た目のことしか書かれていない。今になってようやくこの品種が世に出てきたということは、あのよくわからない何らかの問題は、何らかの手段で解決したのだろうか。

 もしくは……。

 嫌な予感がしたキリウは、先程から近くの公衆電話ボックスの外でずっと電話しているクソやかましい男に、スタンガンをぶち込んで昏倒させた。そしてそいつの手から、どこにも繋がっていない受話器をもぎ取った。だけど番号が思い出せないので、自分の頭にもスタンガンをぶち込んで超能力の覚醒に賭けた。

 無意識空間にダイブできるやつとかアカシックレコードに接続できるやつとか、そういうのを頼む! まぶたの裏に散った火花がキリウの全身を駆け巡り、よりによってパイロキネシスを発動させると、そこに転がってる電話帳もろとも周囲三メートルを焼き尽くした。

 燃え上がる古新聞の上で火のついた白い虫が転げ回っているのを見て、幻覚まで自分のバカに付き合わせたようで、キリウは虚しくなった。しかし手元から微かに響くドスの効いた声に、慌てて焼け焦げた受話器を耳に当てた。

「ごるぁ返事せえ、なんじゃ、お前」

「すみません、青旗連合枯山水……」

「うちは赤旗じゃけえ」

「ごめんなさい」

 怖い人が出たので勢いよく受話器を置いたのだった。深呼吸してキリウはテレホンカードとスタンガンを再び構えたが、ふと冷静になって半分燃え残っていた電話帳をめくったら、青枯大の番号が見つかったのでそこへかけた。

「こちらは青旗連合枯山水大学農学科事務室です。火事ですか? 救急ですか?」

「両方です! 抽象的植物育種学研究室の或田教授はいらっしゃいますか?」

「火事ですか? どちら様ですか?」

「先日、リンゴの件でお伺いしま……」

「申し訳ありませんがお繋ぎできません。もうかけてこないでください。あなたほんとうにきもちわるいです。あなたが傷つくと思ってずっといえなかったけど、あたしの気持ちをはっきり伝えておきたくて。次やったらストーカーで訴えますガチャン」

 だから両方だと言っているだろうが! 不通となった受話器を今度は叩き付けて、キリウは足元の電話帳を蹴り飛ばした。突き刺すようなミドルシュートが向こうのゴミ箱に決まった。そしてため息をついて、ポッケからメモ帳を取り出すと、前回の調査記録をめくって研究室に直接コールした。

「すみません、先日リンゴの件で伺った者ですが、或田教授はいらっしゃいますか」

「えーリンゴですか!? そのテの人多くてちょっと……」

「髪の毛が青ッな子供です! 誰か覚えてないですか、おたくのリンゴがうちに届いて泥棒って……」

 電話に出たその学生に、キリウは少し待つよう言われた。受話器の向こうでは何かを水で洗う音と、麻雀牌をかき混ぜるような音と、さらにくぐもった悲鳴がひっきりなしに響いており、聴くものを不安にさせた。だが仕方ない、何せ植物の育種というのは七つの地獄のうちの一つだからな。

「お待たせしました、覚えてるって子がいました。先生のところのパルミジャーノん君です。すみませんね」

「それはよかった」

「育ちの悪そうな顔をしていたから覚えていたそうですよ。我々のボスなら心を病んで入院されています、お見舞いなら場所を教えることが許可されてま、あっ」

 自分の顔は育ちが悪そうな造形をしているのだろうかとキリウが気にする間も無く、小動物の飼育ケージが床へ落ちるような金属的な響きが炸裂した。続いて電話に出ている学生の情けない悲鳴に耳をつんざかれて、どうでもよくなった。悪い意味で女々しい声であった。

「パルミジャーノん君が逃げ出したッ!」

「そのひともしかして白ネズミ……」

「ア~~!! 先生ならユートピア記念病院のC棟五階です。お見舞いのお菓子にはリンゴを使っていないものを御所望です、それじゃガチャン」

「切りやがったコイツ」

 キリウは悩んだ。どうやらネズミに育ちを貶されたことを悟ったが、彼の記憶ストレージには、育ちの質を診断できるだけの材料が一欠片も残っていなかった。いや大事なのは今だ、人間は今を生きているのだ。三つ子の魂を現金化するための指南書が先月のベストセラーだったことを思い出せ。今日から飯を食ってる最中に何度も戸締りを確認するのはやめる。

 それより或田氏を気にするべきだと、穴が増えて蜂の巣みたいになったテレホンカードをしまいこみながら彼は思った。心を病んだというのはどういうことか。また、ユートピア記念病院は青枯大ほどこの街から離れてはおらず、大病院であるためキリウもそこへは何度かぶち込まれたことがある。彼は氏に対して親近感を覚えた。

 あれはなかなか悪い病院ではない。キリウが最後に入れられたのはずいぶん前の話だが、当時は油汚れのしつこさと贔屓のミュージシャンの人間性の著しい劣化への絶望で、だいぶ参っていた。何より警察に歯向かうとすぐに放り込まれるので、毎日楽しく過ごしていたら誰でもあそこと関わりを持つ可能性があった。だろ?

 そういうわけでキリウは顔のついた変な帽子をかぶり、百貨店で見繕った土産が入った大きな紙袋を引っ提げて、ユートピア記念病院へ向かったのだ。明日はどっちだ。