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36.GOGOスクールガール

 本日は雨天なり。

 日陰者の町には、子供たちに一般教養と一般常識を身に付けさせるための学校がある。子供だけでもまっとうな社会へ出られるようにと願う親、とりあえず子供は学校へ行くものだと思い込んでいる親、子供を学校へ通わせてやることもできないという劣等感から逃れたいだけの親、騙されやすい親、正常な判断ができない親、訴訟狂の親、たんぽぽ、単に頭がおかしい親などは子供が小さい頃からそこへ入れるのだ。

 案の定、誰の望みも踏みにじられた。

 今やそれを分かっていながらあえて子供を入れようというのは、弱肉強食を叩き込むために他ならない。

 ユコはキリウ少年の意向で、初等部の途中から学校へ通わされていた。虫ではあるまいし読み書き計算くらいはできた方がいいだろうと思ってのことだったが、しかしキリウも当初は迷ったのだった。この町のバカでアホで残酷でバカな子供達の中に、文字が読めないことを除いては、そこまでバカでもアホでも残酷でもない外から来た人間であるユコを放り込むことが、不安だったのだ。

 結局ユコが行きたいと言ったし、やはり文字が読めないことは問題だったので、しばらく彼は何度もユコに「行きたくなければ行かなくていい」「危ないと思ったらすぐ逃げろ」「背後に注意しろ」「クズどもには容赦するな」「顔はやめろ」などと言い聞かせながら、毎朝送り出すことになったのだけれど。

 それももう何年も前の話だ。

 ヒビの入った姿見に映る自分の顔を見て、ユコは頬に手を当てた。光の下で見ると、想像していたより顔の傷はなんでもないように見えたからだ。長く伸びた一本がキリトリセンのようなかさぶたになったせいで、やや皮膚が引き攣る感じがする点以外には特に気になることもなかった。

 なぜかこの二階と三階を繋ぐ階段の片方の踊り場にだけ置かれた、その大きな鏡。真夜中に覗き込むと、メロンパン食い過ぎて病気になっても食い続けて死んだデブ女の幽霊が映るという大きな鏡。乾いた手垢とか鼻血とかアクリル絵の具でペイントされた大きな鏡――の前を離れてユコが三階へ上がると、朝の空気の中、愛を知らない学生達がうろついていたり、うずくまっていたりした。

 ユコはいつものように、廊下の端っこで麻袋をかぶって寝ている男子生徒を蹴り起こして、そいつが壊れた音楽プレーヤーみたいに意味不明な呻き声を上げるのを気にせず、近くの教室へ入った。彼のそれが挨拶であるという事実は誰もが知るところだ。

「おはようニャ」

 そこに立っている、人間の身体に猫の頭を乗せたような奴は猫人間である。猫を愛するあまり猫と子をなした男がこの町に逃げ込んで、ここまで育て上げた娘だ。血のにおいがするところへ寄ってくるが、本人にその自覚は無いらしい。

 彼女に挨拶を返して、ユコは落書きだらけの自分の机に鞄を置いた。ユコがあまり消さないので結果として落書きだらけになってしまうだけで、普通に過ごしていたら誰の机もこれくらいは汚れるものだ。誹謗中傷、途中式、伝言メモ、隣の席の漫画オタクの絵を褒めたら時々勝手に描いてくるようになった絵、前に何かの移動教室でここに座った誰かのメッセージ(『ワッフルくったことない』)。右下のこれは昨日自分で書いた謎のポエム。

 一晩経ったら、書いた時には良い出来だと思っていたポエムが気恥ずかしく感じるようになっていたため、久々に全部消そうとユコは思った。

 しかし、油性インクを落とすための除光液が必要だと思いながら彼女が机に消しゴムをかけ始めたところ、昨日までは無かった、もう一つのメッセージを見つける。

『こっちみて』

 読みづらい小さな字で書かれたそれに従うかどうか、ユコは迷った。そしてなんとなしに机の中に手を入れたところ、小さな紙箱が転げ出てきた。中には、身に覚えのないクサカゲロウの死骸がいくつか入っていた。ユコはクサカゲロウが好きだったが、こうなるとそれが生きてる時に限るのかどうか分からなくなってきた。

 それに、これではどっちを見ればいいのか分からないので、どっちを見ればいいのか分からなかった。朝は眠いから……闇雲かつそれとは無関係にユコが後ろを見たところ、ふいにカメラのシャッターが切られる音が響く。

 机二つ分くらい離れて真正面から写真を撮られたようだ。まだ人の少ない教室で、ただひとり一眼レフを構えた小柄な女子生徒が、ユコと目が合うと照れくさそうに笑った。

 一度も話したことがない生徒だった。そいつは、小さな声でおはようと挨拶してきた。

「……おはよ」

 カメラを向けられ続けているせいで気が気ではないが、ユコも渋々挨拶する。この学校、この町で他人がすることの意味を問うのは無意味だ。

「あの、カメラやめてくんない?」

 それを知ってか知らずか、このようにして直接伝えたところ、そいつはカメラを下ろしてやはり笑っていた。そして次の瞬間、細い腕で全力込めて一眼レフを床に叩きつけた。

 頭の足りなそうな様子で彼女はへらへら笑っていた。長い前髪にほとんど隠れた大きな丸い目が、言葉の通じない別の生き物のような印象を放っていた。

「えっと……終電から始発までの間だけ線路の上で寝るのって、どう思う?」

「?」

 業を煮やしたユコは、できるだけそいつに通じそうな話題を頑張って選んだが、通じなかったようだ。きょとんとして首を小刻みに振り始めたそいつを前に、ユコは朝っぱらから頭と気分がなんとなく重くなってきた。彼女は根が真面目なところがあるため、殴ったり蹴ったりでもしない限り、この町に多く存在する言語コミュニケーション不全者をあしらうことに関しては不得手であった。

 ユコが尊敬するキリウもよく意味が解らないことを言い、意味が解らないことをするが、それは彼がシャイだからだ。本質的な言語コミュニケーション不全者ではない。キリウは彼に対して不義理で不誠実な社会から身を隠すために、我々の可聴域を外して喋らざるを得なくなってしまっただけだと、ユコは知っていた。

 しかし彼だったら、こんな時に適当なことを言ってなんとかしてしまうんだろうな……そしてそこにはほんのりした愛があるんだ。カステラでブン殴るような。そんな彼には、ユコに足りない愛が溢れている。

 ユコは椅子の背に腕をかけたまま、ずっと後ろを向いていたので、そろそろ首とか肩が痛くなってきた。元から痛かったのかもしれないが、もうよく分からない女など無視くれて、今日提出する宿題をやろうと思った。あっちでは床に叩き付けられたカメラの残骸に数人の生徒が寄ってきており、互いに破片を奪い合っていた。

 しかしケンカ狂いの少女が、絆創膏の緩んで気色悪い手で机の中から引っ張り出したノートはまた、昨日までには見覚えがない落書きにまみれていた。すぐそばをぺたぺた音を立てて過ぎて行った寒気にユコが顔を上げると、目の前に先程の女子生徒が立っていた。

 ほとんど瞬きせずに丸い目で自分を見つめ続けてくる彼女の言いたいことが、どうしてもユコには分からなかった。

「あ、分かった。あなた、あいつらの使いっ走りだよね。なんか用?」

 もちろんこの世に分かることなどない。

 黒板の前で騒がしくチョークを食べている生徒の一団を肘で指してユコは尋ねたが、彼女は首を振る。やや間を空けて、小さな声で「違う」と答えが返ってきた。何が違うのかよく分からないが、挨拶以来の人語だった。

 次に目線を外した時、ぺたぺた音を立てていたのは彼女が履いている赤いスリッパだったのだとユコは気付いた。

 その頃教室の後ろの方で、一眼レフの全ての破片をものにした男子生徒が、ロッカーに登って奇声を上げていた。彼がロッカーの上から見下ろす景色は、言いようのない閉塞感と実体のない絶望と無邪気さに満ちている。彼の両手いっぱいの破片が再び宙に放たれ、教室中にぶちまけられた瞬間、薬中の数学教師が扉を蹴破って入ってきた。開ききった瞳孔に根拠のない怒りを宿して、間違った教室に。

 その日の放課後、雨が止むまでユコは、変な女子生徒と一緒に図書室で宿題をやってから帰った。