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32.センチメンタルブルージャーニー

 時に皆さんはキリウ君のことをご存知ですか? 彼をタダのバカだと思ってるでしょう、だが彼の忘れっぽさは天才的なところがある。ある日両親の顔を完全に忘れていた彼を見た時、ぼくは彼を不義理な奴だなと思った。彼が基本的にクソどうでもいい義理や付き合いといったものとはまったく対極に位置していることを除いたとしても、彼は好きじゃないもののことは数年でコロっと忘れるとゆうことだ。そしてさらに数十年経った頃、彼はついに自分に親がいたということそのものを忘れたのだ! どうやら彼は哺乳類ではないようです。それを知った時、ぼくは彼を尊敬しようと思いました。

 え、ボケ? ビョーキ? ……。

 明けない夜はない。なくてもいいが、それにしてもこれは長くて長くて喋り方を忘れそうになる。そうして薄暗いプラットホームの長椅子で、人生の不毛さに苦しんでいるのはジュン少年だった。この世のあらゆるしょうもなさに凝固剤を放り込んだようなその記憶――あれから自分と同じ赤い瞳をした兄を、病院に連れてった時のことを彼は思い出していた。

 このぼろい駅の立地ときたら大した田舎で、列車が半日に一本きり来ないのだ。おまけに時空が不安定であり、放っておくと数百時間は朝が訪れなかったりする。そんなだから、特に暇つぶしもせず暇を暇のままにしてうとうとしていると、ふと煤けた思い出が浮かび上がってきてもおかしくはない。

 もっとも彼はやろうと思えば何でもできるので、今すぐにでも列車を呼ぶことくらい簡単だった。なんならこの時空の歪みを直すことも。

 けれど彼は旅人なので、そういうのは野暮だと考えて踏みとどまっていた。何より疲れていた。

 趣味とは時間がつぶれてなんぼの世界だと彼は思っていた。振り返ってみれば無駄足と遠回りばかり、引き返しては振り返ってを一人むなしく繰り返した獣道。そこに利益を求めることを強欲だと感じたが最後、残るのは果てしない自己満足とナンセンスギャグ――。

「そこの少年よ」

 人がセンチメンタルしてる時に話しかけないでくれます!?

 半分くらい眠っていた彼は、心当たりがあったので慌てて飛び起きてこう言った。

「待って、訴訟のことなら……」

「君、どれくらい待ってるんすか?」

 金縛りを無視して、ようやくジュンは目の前の青年を認識した。訴訟沙汰は夢うつつの幻だったようだ。大きな鞄を抱えたそいつはどうやらジュンと同じ旅人であり、次の列車の目処をつけようと、この場にただ一人いたジュンに話しかけたようだ。

「あ、半日くらいですかね」

「それじゃ、もう少しかな」

「だといいですけど……」

 そして二人は、五人掛けのベンチの両端にそれぞれ座っている形になった。もうしばらくすると、タヌキがやってきて真ん中に座った。

 端が黒っぽくなった蛍光灯が消えない程度にチラチラと照らす空間に、風は吹かない。実は時間なんか進んでいないのかもしれないと思わせるほどに。

「君、どこ行くの?」

 キャスケットをかぶり直しながら、旅人の青年は他意なくジュンに尋ねた。話しかけてくるなと思いながらジュンは答えた。

「世界の果てっ」

 ロマンチックすぎたのか、青年は頭がくらくらしたようだった。まるで何かひどいものを見たかのような、塩のかたまりを口に突っ込まれたかのような、胃が熱くなるくらいの戦慄を強ばらせたような表情を浮かべていた。

「若気の至り!?」

「悲しいかな至らなかった。見つからんですそんなものは、帰るとこです」

「はあ……家どこ?」

「三千光年左」

 ふざけているような受け答えだが、ジュンは本当にふざけていた。彼は双子の兄よりは外ヅラが良かったが、疲れてくると人間性が冷たくなりがちだった。

「ねえ君も旅人なの? この街本当ヤダよね、観光して楽しいとこもないし、住民は排他的で性格悪いし、こんなへんぴなとこで同業者に会えて嬉しいよ。すっごく若いよね、何歳なの?」

「十四」

 永遠の六百六十六歳! 逆さ十字吊った部屋で肝臓を食べることが唯一の趣味です!

 そう心の中でだけつぶやいて、ジュンはうんざりした風に腕を組んだ。今のシャレがつまらなかったからだ。悪魔である彼は例によって様々な仕事を点々としながら生計を立ててきたが、強いて言うなら一番気に入っていたのは漫才師であった。ただ、センスがなくて売れなかったし、最後の相方と別れた時も流血沙汰だった。

 それはどうでもいいが、自分自身の正確な年齢を覚えている悪魔などいない。自分から悪魔だと名乗りたがる悪魔もいないので、多くの悪魔は、当たり障りのない外見年齢を口に出すその時間を無駄だと思っている。

 ジュンがひどい薄笑いを隠したまま何も言わなくなったので、青年はつまらなそうに鞄を撫で回していた。

「愛想悪いなあ、現地の人との交流とか楽しめないタイプでしょ。自分から会話を広げていかなくちゃ。そんなんじゃ旅人としてだけじゃなく、これから先損することばかりだよ。社会はそれで通用するほど甘くないよ。耳が痛いかもしれないけど、人生の先輩として忠告しておくよ、いずれ君はこうしてはっきり言ってくれる人がいたことに感謝するはずさ。今は分からないだろうし、分からなくてもいいけどね!」

 ……。

「ですね」

 幼い顔に無表情を貼り付けたまま目も合わせずに隣の少年が答えると、そいつは満足げな顔をした。

 そうこうしているうちに、暗闇と時空間を切り裂いて、ホームに列車が入ってきた。スペクトルがずれていく感覚に色彩を委ねて、ジュンは旅行鞄を片手に、青年とは違う車両へ乗ろうと少し離れたところへ歩いていった。口うるさいそいつは着いてくる気だったようだが、ジュンがうっかり「え、ヤダ」と言ったので恨みがましい目をして逃げてった。

 少年がふと振り向くと、長椅子の中央でゴロゴロしていたタヌキはキツネに化けていた。見られていたことに気づくと、キツネはさらにムカデに化けてジュンと一緒に列車へ乗ってきた。

『たぬたぬ! 気を落とさないでたぬ! 人生はひとつじゃないたぬ~!』

 百本くらいある脚を上下させて、ムカデはテレパシーでジュンを励ましてきた。口調はタヌキのままかよと彼は思ったが、よく考えたら意味が分からなかった。

 旅行鞄にムカデを引っ付けたまま壁にもたれかかって、ジュンは、太陽でも撃ち落としに行きたい気分になった。