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31.いやらしい人妻

 夢の中をさまようキリウ少年は焦っていた。携帯ラジオをなくしてしまったからだ。もちろん夢などではなかったが、それはどうでもいい。もう何度も買い換えているのに、彼は何度でもそれをなくしてしまうのだった。あの携帯ラジオが……いや、あの電波ジャック番組が聴けなくなれば、正気が保てなくなる。それで彼は、かれこれ三十時間くらい携帯ラジオを探していたので、すでに正気ではなくなっている可能性があった。

 無意識のうちに食べてしまったとか、今度こそそういうのはないはずだった。臓器がプラスチックで汚染されてしまう前にそういうのはやめようと、ここ数年はつとめてきた自覚が彼にはあった。

 それではどこへやってしまったのか? 集合住宅の彼の部屋の上の階の隣の部屋にピッキングで侵入し、すっかり掃除しても見つからないから、彼はうんざりしてベランダへ出た。

 すると、隣室のベランダでたそがれていた人妻と目が合ってしまった。彼女は魅力的な人妻であったが、精神的には未亡人であった。

「あら、こんにちは、悪魔さん。今日も今日とて、ジットリといやらしい目つきで今、舐め回すように私を見ましたね!?」

「こんにちは奥さん、このあたりで赤い携帯ラジオを見ませんでしたか?」

 キリウは『見てない』と言ったつもりだったが、言ってなかった。上の階の隣人の隣人はキリウの言葉を聞くなりニッコリと笑うと、両手でピースを作って彼を手招きした。

「それなら、うちにありますよ」

「やったー!?」

「あ、でも、ちょっとこっちまで取りに来てもらえませんか?」

 突然の有力情報にガッツポーズをきめたキリウだった。人妻の言葉が帯びる妖しさに気づいてはいたが、正気を失いかけている彼のパープリンな脳みそは、スパゲッティ以下の論理回路で猛烈なGOサインを出していた。

 少年は柵を飛び越えて隣のベランダへ飛び込んで、ちょうど排水溝から出てきたものすごく気持ち悪い生物をサンダルで踏み潰した。その様に人妻は、花開くようにふわっとした笑みを浮かべて微笑んだように笑っふふふ。

 キリウが彼女に招かれるままベランダから部屋に上がると、そこはとても禍々しい空間だった。彼女はインテリアの趣味が悪いらしく、リビングの床が怪しい彫像とドライフラワーで埋め尽くされており、間取りの違い以上の凄みをキリウは感じた。そういう壁紙なのか、はたまた手書きなのか、白い壁一面に黒い文字がのたうっているのも高ポイントが期待できる。神々しげなキャビネットの中に据えられた偶像は、穴ぼこだらけの木材でできていた。極め付けは、テーブルの上で焚かれている奇妙なにおいのお香かなかな!?

 そしてキリウの携帯ラジオは、半壊ッした状態で壁に釘で張り付けにされていた。

「あ、壊れちゃったんですか……」

「:)」

 虫がたかっているような文字の群れで分かりづらいが、よく見ると、壁の同じ面のいたるところで彼の歴代の失踪ラジオが同様に磔刑に処されているようだった。

「なんで全部ここにある?」

 何かに気づいたような、しかし微妙に気づけないままキリウが尋ねると、微笑みを湛えたままの人妻はお茶を差し出してきた。そして小指を立てて答えた。

「あなたも私のこといやらしい目で見てるんでしょ? あの人と同じなんでしょ? 悲しみはいつか消え、やがて怒りだけが残る。それが逆恨みのマテマティカ」

「なんで死だけが人を救えるなんて決めつけるんですか!?」

「カステラ!」

 その不自然な挙動に気づいたキリウは、彼女の手から湯飲みをひったくろうとしたが、彼女の方が速く動いた。彼女の肉感的で白い腕が鞭のようにしなると、次の瞬間、淹れたての生臭いお茶がキリウの顔にぶちまけられたのだ。

 キリウはお茶を顔面に叩きつけられる感覚を知っていた。奇妙な既視感にとらわれて、そのお茶が三番煎じくらいであることには気付かなかった。視界がきかない中で、奇声を上げながらカナヅチを振り上げる人妻の影をとらえた。

 ――それから鈍い音が何回響いたのか、引き倒されて側頭部をたたき割られながら、少年はラジオのことを想っていた。生きてる意味が無いキリウにも、やりたいことがひとつあった。いつか……自分もラジオの放送をやって、誰かに話を聞いてもらうのだ。誰とも分からない誰かに。

 しばらくして殴られなくなった頃、プラスチックに汚染された内蔵を吐き出す幻覚を見た気がして、キリウは目を開けた。実際に口から出てきたのは泡混じりの赤黒い血とうめき声と、大昔に飲み込んだ差し歯だけだった。

 彼が痛みより痺れと重みを感じる頭に手を当てると、半壊して変形していることが分かったが、そんなことはどうでもいい。血が滲み出る彼の頭は、生肉とは程遠いゴムの塊のような感触をしており、少しするとそれ以上の血は流れなくなった。

 もうしばらくすると、床を伝って前方から広がってきた別の血がじわりと彼の頬に触れ、彼は腕だけで上体を少し持ち上げた。そして向かい側の壁面に磔にされて、黒くのたうつ文字の上に大きな赤い染みを広げている、いやらしい人妻の肢体に気づいた。

 彼女の腹を刺し貫いているモノが何なのか、キリウにはよく分からなかった。ただ、空っぽのはずの頭がとても重く感じるのは、彼女のせいだということだけは理解できた。よく見ると半壊した自分の頭から黒い木の根のようなモノが伸びていて、彼女を壁に釘付けにしているようだったからだ。

 キリウは数十秒か数分くらい、それをじっと見つめていた。

 しかし携帯ラジオを探しにここへ来たのだということを思い出して、声にならない声を上げて慌てて立ち上がった。彼が猛烈な立ち眩みに襲われている間に、頭から生えていた何かは消滅して、支えるものがなくなった人妻の残骸は血の海に落ちたが、そんなことはどうでもいい。すでにほぼ床一面に広がっている血を蹴飛ばしながら、キリウは愛する携帯ラジオ達の残骸でいっぱいの壁に倒れ込んだ。そしてそれらにこれでもかと打ち込まれた釘を、端から力ずくで引き抜き始めた。

 悲しい夢だった。自分は何も守れなかったのだと知って、キリウは目から涙が溢れて止まらなくなった。