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181.電波少年いなくなる

 微かに揺れた気がした。

 そのせいで、どう答えても自分が核武装主義だという結果に誘導され続ける心理テストに追い詰められる悪夢から覚めたI.D.は、そこにいたはずのキリウ少年がいなくなっていることに気づいた。

 風ひとつ無い午後のことだった。目を閉じていたなら、助手席のドアが開け放たれていることが分からないほどに、全てが静止した午後だった。このままずっとその場所を見つめていたら、太陽すら動かないのかもしれなかった。

 I.D.は凝り固まった指で、ハンドルに突っ伏していた顔を撫でる。ひどく久しぶりに眠った気がしていた。モノグロは食事や睡眠をとらなくても平気な生き物だったが、ほかにそのようなことをする生き物と一緒に過ごしていると、つられて同じことをする習性があるのだ。

 ということは、やはり『彼』はそこにいたのだろう。いつもいつも、電池が切れたようにしか眠らない人間が。I.D.は一瞬、キリウという少年自体が白昼夢の中の存在だったのではないかと勘繰りかけたが、すぐにそれを振り払うことができた。何より仮に彼が実在しなかったところで、パーティーが楽しかった事実に変わりはない。

 そう思って扉を開けたI.D.は、メイヘムが列車の線路をまたいで停車していることに気づいて、ぎょっとした。

 その線路はとても使えないほど錆びてぼろぼろだった。どうやら廃線らしく、周囲を見回すと、近くに崩れ落ちた小さな駅舎があった。あのプラットフォームの向こう側にはまた別のゴーストタウンがあるはずだ。自転車置き場があって、タクシー乗り場があって、誰も居ない広場があって――。

 あれ?

 日没前なのに、線路の先の遠くの方が真っ暗になっていた。雲一つ無いのに、どうしてあんなに暗いのだ。

 しかし同時に地の底から湧き上がるような怖気を感じた彼女は、即座にメイヘムを叩き起こしてアクセルを踏んだ。

 直後、凄まじい勢いで突っ込んできた幽霊列車が、I.D.のいたところを轟音を立てて通過していった。それは止まっていた世界が一気に時間を思い出したかのようだった。静寂をぶち砕いて突き抜けた風が開きっぱなしのドアから吹き込んだ時、助手席の足元に放られていた大量の紙の束が巻き上げられて、メイヘムの中はあっという間にめちゃくちゃになった。

 三十秒もすると、辺りは何事も無かったかのように元の静けさを取り戻していた。穏やかというよりは、とにかく淀んでいて息が詰まる静寂。モノグロは呼吸も必要無いのにだ。ただ、今度はエンジンの音があったので、I.D.はいくらか正気でいることができた。

 I.D.は、背中とシートの間に入り込んでいた紙を引っ張り出した。それはいつもキリウが何かを書いていた紙ではなく、彼がいくつかの街で手に入れていた地図のひとつだった。風で飛び散った紙はどれも地域も縮尺も異なるバラバラの地図で、謎の落書きが散見される以外は、何の変哲も無かった。

 彼がペンでやたらと書き込んでいた紙はどこへ行ったのだろうとI.D.が探すと、実際のところ、それは助手席の足元に置かれたままでいた。一番下に大事にしまい込まれていたうえ、何度も畳まれていたからか、吹き飛ばされなかったみたいだ。彼女は運転席から出て、極端に大きなその紙を地面の上に広げて置いた。

 この時I.D.は、初めて『自分が』何をしていたのかを知ることになった。

 ――それもまた、巨大な地図だった。ペンで書かれた地図。キリウが地図のようなものを描いていること自体はI.D.も知っていたが、こうしてまじまじと見たのは初めてだった。たぶん、先のバラバラの地図を一つにまとめたものなのだろうと最初にI.D.は考えたし、その想像は正しかった。しかしこれは、辛うじて地図だということは解るが、この世に存在する普通の地図ではまったくない代物だった。精密な線が全て手書きであること以上に、空いたスペースにI.D.には判読不能な文字がびっしりと書き込まれているところが不気味だった。

 なのにI.D.は、その地図の随所に書かれている謎のマークが意味するところを直感で理解してしまった。いや、それが理解できたからこそ、この意味不明な図形を地図だと思ったのかもしれない。

 ここのところの彼女はずっと、キリウに言われるままにメイヘムを運転して各地を巡っていた。だから解るのだ。方角と距離から察するに、それらのマークは電波塔だった。バツ印がついているのが、キリウが破壊してきた電波塔に違いない。そして彼から何も聞かされていないI.D.が見て解るほどに、そのバツ印を繋げた線は作為的な形をしていたんだ。

 ぐるっと輪を描くように並んだバツ印の真ん中に一本だけ、バツ印の無い電波塔が残されていた。こないだ壊した電波塔がこっちのバツ印だとしたら、ちょうど、この線路の先の闇の向こうにあるのがそれのはずだ。

 I.D.はどうしてか、そこにキリウがいる気がしてならなかった。そんなところにキリウがいるのだとしたら、何か彼はとてもまずいことをしている気がするから、彼をここまで連れてきてしまった以上、自分が引っ張り戻さなければならないと思っていた。

 I.D.はメイヘムを線路から充分離れたところに動かすや否や、急いで降りて荷室の底からモノグロの羽を探し出した。遠い昔に、邪魔だからと自分で背中からもぎ取った羽だ。それを背中にくっつけ直し、大きなゴーグルで一つ目を保護すると、彼女はふわりと宙に浮かんだ。そして暗闇の空を目指して、メイヘムよりも速いスピードで飛んで行った。