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177.鈍色プランター

 I.D.は人里で生まれた普通のモノグロだったが、生まれた時からI.D.だったわけではなかった。少なくとも、床下でズンドコしていた頃のI.D.はI.D.ではなかった。いつだったか、ゴミに混ざっていた『善悪以外の知識の樹』の実の種を飲み込んだ次の日から、I.D.は自分がI.D.になれることに気付き、I.D.となった。それからI.D.が女の子になるまでには、更にいくらかの年月を要した。

 とかいう与太話は置いといて、知性あるモノグロの少女I.D.は今、その知性ゆえかつてないほど苦悩していた。

 ――言えるわけがない。今日の彼女の偏頭痛の真ん中では、そればかりがぐるぐるしていた。モノグロの、眼球が大きすぎて頭のどこに入ってるんだか分からない脳みそを引っくるめてもだ。久々の街中で、久々のキセルを片手に、コンクリートの谷間で流れる川の水面を見下ろしながら、彼女は長く長く煙を吐いた。

 言えるわけがない。あんな顔を見てしまったら、もう何も。

 実際、I.D.は何も言えなかった。彼にだ。本当のことをだ。

 キリウ少年が探していたラジオ番組が、かつて自分たちが運営していた違法ラジオ局のものだと気づいたI.D.は、しかしついにその事実を一片も彼に伝えることができなかった。I.D.の口から出た『日刊虚言プランター』という番組名を聞いた瞬間の、キリウの心底噴き上がったような笑顔のせいだ。

 I.D.をいちリスナーだとカン違いして、自分が番組宛にメッセージをさんざん送ったこと、D.J.を崇拝していたことをしゃあしゃあと語りだした彼は、殉教者の目をしていた。射抜かれてI.D.は、マイクを切らなければよかったと思った。そうでなければ、あの時モニター機器を放り出さずに自分もマンドラゴラの声を聴いておけばよかったと思った。

 だってこんなことある?

 メイヘムの荷室に眠るパンドラの箱に収めたままの悪友たちの遺骸を想うと、I.D.は気が滅入ってきて、柵に肘をついて項垂れた。頭の上で束ねた長いアンテナの先が、雲の隙間から射す夕陽で染まった川を覗き込んでいた。

 ラジオ局は潰れたし、地上は真っ黒に染まってしまったけど、空の色だけは変わらないのだった。空色の定義は変わらずに済んだってことだ……。

 難儀そうに唸っているI.D.の背後を、人間に連れられた犬とか桂馬がぎょんぎょん鳴いたり成ったりしながら通り過ぎてゆく。当たり前だ。せっかくの川沿いの散歩道なのだ。そしてI.D.は下を向いたまま、彼女の顔をちらりと覗き見ようとする人々の遠慮がちな視線を第六感で捉えていた。そりゃそうだ。こんな一つ目のヒトガタは滅多にいるものではないからだ。

 I.D.は生まれた時からI.D.だったわけではなかった。I.D.になった後のI.D.は、身体改造を繰り返して今の身体を手に入れた。邪魔な羽は取っ払ったし、ピーコックグリーンの虹彩も自分で色をつけた。よほどの変異個体でも、モノグロの目は赤色以外にはなり得ない。

 がらんどうの身体の中には、たまにヤニを塗ってやるのが良かった。けれどI.D.は、メイヘムの中でキセルに火を点けるのが好きじゃなかった。当たり前だ。メイヘムが病気になるからだ。

 ――。

 再び煙と共に深いため息を吐いたI.D.の隣に、いつの間にかキリウが立っていた。

「ねー、I.D.」

 キリウだ。ご機嫌で何よりだ。彼をも同様に第六感で捉えていたI.D.は驚かず、ただ黙って顔を上げた。

 I.D.を呼んだキリウの目は、あれから少しは落ち着いていたが、まだ充分に素敵な輝きが残っていた。なんでか今の彼は、使い捨てのボトルを切って下半分だけにしたものを両手で持っていた。そこに詰め込まれた灰色の泥の真ん中に、奇妙な白い植物が植わっていた。それはI.D.が目薬のせいで見間違えたのでなければ、不思議と緑色のところが一切無く、全身が真っ白だった。

「なにそれえ?」

 I.D.は思わず凝視した。一つ目で。

 その小さな白い花はうつむいたように下を向き、花弁がすぼんで丸っこかった。平べったい柱頭が大きな一つ目をイメージさせるのと相まって、なんだかモノグロに似ていた。

「なんか、モノグロに似てる花」

 キリウの答えもその通りだった。この人は冗談を言うことがあるんだ、とI.D.は感心した。

「似てるねえ。似てるよ。へええぇ、こんなんどこに生えてんの??」

「あっちの木がいっぱいあるところ」

「へへっ。モノグロに似てるから引っこ抜いてきたの?」

「うん。あのさ、車の上に置いていい?」

「え?」

 訊き返したが、I.D.はすぐに理解した。メイヘムはルーフの上に枠を固定してあって、その内側に透明な蓋つきのプランターを並べて目薬の花やキセルの葉っぱを育てているのだ。

 もちろん毎日水を与えているので、流れ出したものでメイヘムはドロドロだったが、視界を遮られない限りI.D.はあまり頓着しなかった。だからだろう。たまにメイヘムに興味を持ったクルマ好きの人間も、美学の相違でI.D.の元を去ってしまうのだった。

「あ、いいよ。それならさ、空いてる鉢に、てきとーに入れていいよ」

「ありがと」

 憑き物が落ちたような笑顔で礼を言ったキリウは、すれ違おうとした犬を飛び越して、凄まじい勢いで駆けていった。たぶん、街の外に停めてるメイヘムのところに向かって。――モノグロの大きな一つ目は例外なく近眼なうえ、著しく遠近感に欠けるので、甚だ運転には適していない。I.D.ががれきだらけの外を走るのは、街の中を走れないからでもある。

「やっぱ変な人だなあ」

 キセルの灰を落としながら独り言ちて、ふとI.D.は、さっきの白い花の素性が気になった。そして、こんなときD.J.のEちゃんが生きてたらなと思った。彼は植物性妖精だったし、マンドラゴラを見抜けずに死んでケチがついた気がするものの、花やら草やらにはそうとう詳しかった。

 でも、花のひとつも咲かない今の世界に彼はもったいない。そのようにも思っていた。