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171.少女・少年・ナマズ様

 こんな黒いがれきの荒野の真ん中で、ちゃちなエレクトロをぴこぴこどんどん響かせ散らかしているのは誰だろう。お前か、私か、君か。

 いや、彼女だ。あっちの彼女じゃない。こっちの彼女だ……。

 その白い少女は、ごっついタイヤを履いた自動車――に極めて近い風情をした乗り物――の運転席にぐんにゃり背を預けて、この上なく脱力した表情をしていた。それは現世ではあり得ないくらいの安らぎぷりで、いかなる救済も恐怖も今の彼女を改宗せしめることは決して無いのだろうと、見る者に絶望を与えるほどだった。

 たとえ彼女のその顔に、目ん玉が一つきりしかついてないことを差し引いたとしてもだ。

 彼女はヒトガタだが、たいぶ変わった容姿をしていた。今や魑魅魍魎が跋扈するこの世界でも、それはユニークな部類と言えた。彼女は大きな目ん玉を一つだけ持っていて、鼻は視認できるところに無くて、体毛が生えてなくてツルツルな代わりに、頭の感覚器をゴムで縛って頭上でまとめ上げていた。そのうえ、比喩でなく白い肌をしていた。それは血が透けそうな温もりのある白さではなく、単に石灰みたいに無機的な灰白色だった。

 弛緩するままに放り出された彼女の手の、へにょと開いた指の先、助手席のシートには空色の目薬が転がっていた。蓋がされないままのそれは、目の粘膜から摂取するハルシノジェンだ。その効き目のほどは見た通りで、ようするに彼女はラリっていた。

 そうして彼女は長いこと半開きのまぶたの下で、充血した眼球をゆったりと泳がせていた。真っ白な曇り空の向こうで、太陽がカボスひとつほど傾いても、まだそうしていた。

 しかしふいに、頭上でゴトンと硬い音がした時だった。

 ――三秒遅れて真昼の路上で目を覚ましたようになった彼女は、勢いよく運転席のドアを蹴り開けた。そして外に飛び出そうとしたところで、ラリっていたためにバランスを崩し、低くない車体から地面に転げ落ちた。ノースリーブな服装のせいで剥き出しの白い腕に黒いがれきの欠片が食い込んだが、そんなことはどうでもいい。やはりラリっていたために痛みが分からなかった彼女は構わず立ち上がり、梯子に手をかけて車体をよじ登った。

 ルーフの上では、立てておいたはずの反射鏡が倒れていた。風も無いのにだ。彼女は払いのけるようにそれを持ち上げて、下敷きになっていたプランタアを慌てて確認する。そこに植わっていた青い花の茎が、三本ほど折れていた。

 陽当たりを良くするための仕掛けで花を傷つけていては元も子もない。彼女が思わず粒コショウを噛み潰したような顔になって、ギラギラ輝く目で辺りを見回すと、ちょうどそこにいた鳥が飛び去って行った。

 白くて大きい鳥だった。こんな、黒いがれきの荒野の真ん中に?

 長く息を吐いた彼女は、ルーフから車の後方を見やった。

 そこに広がっていたのは、地平線の果てまで続く真っ赤な湖だった。(書いてなかっただけで最初からずっとあった。)その巨大なくぼみは、濁った赤い水を底にパンチ穴を空けても流し切れないほど湛えているくせに、波音ひとつなく不気味なまでに静かなもので、生き物の気配なんかまったく無いのだった。

 気配が無いだけで、ほんとにいないわけではない。すぐそこの岸辺には、鳥に啄まれて中身をさらけ出したナマモノの死骸がいくつか積まれていた。丸っこい身体から赤いリボンをびろびろはみ出した、魚にも獣にも虫にも見えないでたらめなナマモノだったが、『彼』が言うところでは魚らしい。

 にわかに弾けた赤い水面の下から、再びそれと同じものが引きずり出される。スイカほどもある少女の視線の先で、その魚の口元から伸びる紐状のリコリス飴を握っているのは――安らぎとか落ち着きとかとは全く無縁そうな雰囲気をした、空色の髪の少年だった。

 それはたぶん、少なくとも、間違いなくキリウ少年だった。

 しかし静かな湖畔で釣りに興じている彼の出で立ちは、ペンで書き込みすぎて真っ黒になったミリタリーカジュアルの上に、おみくじを結びまくった針金ハンガーというもので、一見して意味不明だった。この少年もひどくギラギラした目をしていたが、ひとつ言っておくとすれば、彼は特にラリっていなかった。素面だった。

 少年。キリウ少年は釣り上げたナマモノの感覚器を手で引っこ抜くなり、残りはお茶請けにどうぞとでも言うように、傍らの山に放った。カマボコは魚でできてるんだ。そして何十メートルもあるリコリス飴の先に、引っこ抜いたものを結び付けると、クソみたいなフォームで遠くに放った。かれこれ数時間、今日の彼はずっとそればかりを繰り返しているのだ。

 今朝、何を狙ってるのだと少女が尋ねたら、彼は「流れ星の欠片を食べた魚を探してるんだ」と答えた。少女は彼のそういうところがわりと好きだったが、特に彼の何かを理解しているわけではなかった。

 ま、何かを理解できてると思ってる奴ほど袋詰めがヘタだってのは、古今東西変わらない事実だけどね。

 風説がピラピラしたところで、次に湖から盛大なしぶきを上げて飛び出してきたのは、巨大なナマズだった。めいっぱい張ったリコリス飴が、べょちんとブッ切れる。悠々と水底へと戻っていこうとするナマズの小さな背びれに向かって、キリウが急に叫んだ。

「待って!!」

 叫ぶなり、彼は釣竿を放り捨てて、前のめりに立ち上がった。助走もなしに思いっきりジャンプして、湖の真ん中にまっすぐ飛び込んでいった彼の背中には、翅こそ無かったが――あ、やっぱ何も無かった。

 砲弾が突っ込んだみたいになった水面は、ナマズよりも大きなしぶきを上げてそれを歓迎しました。少女はびっくりして、ルーフから身を乗り出して声を張り上げました。

「何してんのー!?」

「ナマズ様ぁぁぁぁ!! 俺をおいてかないでよおお!!」

 両腕を広げたよりも体長があるナマズに抱き着いて、彼は何やら「刺身にしてやる」などと因縁じみたことを喚いていた。真っ赤な水の上でばちゃばちゃ暴れる彼は、ナマズと一緒に踊っているかのようだった。

 そんなものを眺めながら、やがて一つ目の少女は、笑い混じりに白い肩をすくめた。

「ワケわかんないなぁー」

 ひとり呟きながら、彼女は不思議と自分の襟首を握り締めていた。――ドキドキしていたのだ。彼女はキリウを見ていると、いつも胸が苦しくなるのだ。

「へへへ。これって恋かな」

 いや、それはあなたがモノグロだからだよ。

 モノグロというのは電波が届かないところで生まれた由来を持つので、電波の元締めに近しい存在たる、アカシックレコードへのアクセス権限を持つ者を本能的に嫌うものです。だというのに、このモノグロの少女はなまじ知性的なうえ、変な目薬でラリっているせいで、そこらへんの認知に歪みが生じてます。

 そんな事実を把握している者はこの世界に存在しないので、彼女がそれを知ることは無いのだけれど。

 ――と、キリウが泳げないことを思い出した彼女が、梯子からぴょんと飛び降りて釣り竿を拾い上げたところで、今日はおしまい。ナマズの悲鳴が、地鳴りがしていた。誰のために? 何のために……?