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17.路上にて

 通りの向こう側でトランが面識のない男に咬みついているのを見て、ユコはその男を嫌な奴なのかなと思った。トランは自分に対して悪意のない人間をそこまで咬まないはずだし、それを見分けられない生き物でもない、と思わないこともない気がするかもだからだ。

 街路樹の前、脚立の上で散髪ハサミを構えたままのユコがトランを呼ぶと、その奇形生物はすぐに攻撃をやめて彼女の元へ戻ってきた。八本の尖った脚を波打つようにうごめかせ、未発達の羽で飛んできて、通常の個体より小さな身体をユコの肩へまとわせる。空中を滑るように音もなく飛ぶモノグロ達が、本当に羽で浮かんでいるとは誰も思っていない。

 トランにケガがないことを確認すると、ユコはその場から、すいませんと謝った。そして、離れていても刺さるような男の視線をよそに、木の散髪作業を再開した。木と人間の区別がついてない人に雇われて、散髪のアルバイトをしている最中だったからだ。

 するとやはり、苛立った様子の男は通りをずかずかと横切ってこちらへ来た。そいつはユコが乗っている脚立をやや強く蹴って、口にタバコをくわえたまま中途半端に声を張り上げた。

「おい。これがゆとり世代か」

 驚いたユコは、手元が少し狂った気がして内心慌てた。

「あなたが先にこいつに何かしたんじゃないんですか。いくらトランがバカだって、ニコチンくさい赤の他人なんか、好き好んで咬まないって……」

 男にもう一度脚立を蹴られて、ユコは散髪ハサミを木に向けるのをやめた。

 真昼の路上に敵意が満ちる。頭の上から男を見下ろしながら、ユコはそいつの立端が無駄に高いことを不満に思った。二・三十代くらいだろうか、ガリガリでどこか黒い印象を与える男だった。

「オレはそいつに触ろうとしただけだろうが」

「タバコ持った手で動物触んな」

 二人分の殺気に、ちらほらいる通行人だの暇人だのサボリーマンだのの意識が集まってきた。そして男がさらにもう一発、今度は脚立を蹴り上げる直前に、ユコは側面方向に飛び降りた。脚立はそのまままっすぐ、勢いよく吹っ飛んでいった。

 短くなったタバコを手で持って、男は舌打ちした。

「つまんない奴めっ」

 そして彼はジャケットのポッケから新しいタバコを取り出すと、そちらへ火を移して、古い方を地面に落として靴でグリグリやった。どこかわざとらしい仕草なのは、威嚇のニュアンスが含まれているからだ。

「だいたい、ガキのくせにこんな昼間からシャバをうろつくなよ、目障りだ。学校行きたくないとかいう軟弱者か。親に金か良識かその両方が無くて、学校すら通わせてもらえないゴミか。実に軟弱なクズだ」

「いい大人のくせに貧弱なボキャブラリーひけらかして恥ずかしくないの?」

「暇なら自殺しろというんだクソ女」

「うるさい、あっち行け」

 ユコは、手に握ったままの散髪ハサミを男の口に突っ込みたい衝動にかられて、ため息をついた。

「まったく、貴様のよーなカスのせいで識字率が下がるっ」

 実は彼も彼で、自分が何を言っているのかよく分かっていなかったのだが。

 睨み合うのに疲れて、二人は互いに視線を逸らしていた。しかしユコの肩で居心地悪そうにじっとしているトランを見て、男は何かに気付いたようだ。そいつは真っ暗な目で再びユコの顔を確認して口を開いた。

「ああ! お前、キリウに飼われてる家出女か。どうせろくな人生歩まんだろうに、無駄にでかくなったな」

 そう言われて、ユコは聞き流していた言葉をようやく拾う気になった。三角コーナーのネットはこんな気持ちなのかなと思ったが、全然適切な例えじゃない。むしろ彼女が三角コーナーにブチ込みたいのは、目の前の男だ。

「あなた誰。キリウの何?」

「……」

 はぐらかすようにタバコの煙を吐く男を見て、ユコは、こいつがルヅという奴なんだと直感した。キリウ少年にタバコを買いに行かせるくせに、代金を払わない奴だ。そういうことを前々からキリウがぼやいていたから、それだけは知っていた。

 つまりこの男こそが。

「徹底した血液型差別主義者、カッコつけ、喋り方がヘン、寒いダジャレが好きで、目立ちたがりで、勝てないケンカはしなくて酒癖最悪、ニコチン切れると手がカタカタする、何頼んでもヤダって言う、毛皮の服見るとそのために死んだチンチラの数の話だけは絶対する、しかもニヤニヤしながらそれする、好きなタイプがいろいろ複雑なバツイチの……」

「どおいう教育されてんだクソ!」

 そうしてついに、ユコの腹に直接靴の裏をぶち込んだルヅだった。それが勝てない喧嘩であるとは知るよしもなく。吹っ飛ばされたユコは、トランが潰れていないことを確認して身体を起こしながら、薄笑いを浮かべていた。