名簿の更新をしばらく忘れていた。リドルがいなくなってから、雑務が増えた気がする。自分が最古参の悪魔になっちゃったせい? なんだかんだ悪魔って、身体が若いから、便利屋っぽさが否めない。
先々週に来たレマが正式に所員になったので、電波塔のチューニングを教えた。彼女は他所でも電波塔の監視のアルバイトをしていたとかで勝手を知っていたので、早いところ御神体が知恵を授けてくれて助かった。
正しい方法でやってきた人からすると、やっぱりここのやり方はぎょっとするらしい。とはいえ自分も、七の倍数番地の出力をわざとずらすと電波に妨害されにくくなる、という以上のことは何も知らない。自分を含めて今の住民は、電波塔に関してはマニュアル以上の知識が無い人ばかりだ。電波塔を研究テーマにした人たちが次々と死んでしまって、長いこと調査が進んでないのが一因なんだけど。
とにかく、電波の浴びすぎが身体に悪いという説は、体感的には正しいと思う。
――D5F9年 某月 某日
ぱちん……ぱちん……誰かが枝を切っている。赤と青の萼のかたまりが落ちてきて、壊れたものが、キリウ少年の死体の上に散らばっている。
無常。浮気性。本当は赤と青ですらなくて、白い虫ばっかりなのかもしれない。世界の見え方は人それぞれ……目が悪いのでなければ。ぱちん、翅音かも。割れた翅のかけらが、初めて見た雪は、白かった。世界は白くて埃っぽくて、かさかさしていた。好きじゃなかった。どこがいいのかわかんなかった。
たぶん、悪いものじゃないんだ。害は無いし、みんながんばって生きてるんだ。何にだっていいところはあるから、一方的に嫌うのは良くないから。でもやっぱり、キモいものはキモいから。
ごめんなさい、好きになれなくて。ありがとうって言ってあげられなくて。えらいねって褒めてあげられなくて、信じてあげられなくて、邪険にばっかりして。ちぎったり、糊で固めたり、火をつけたり、爆竹つけて飛ばしたり、袋にいっぱい集めて潰したりして。
だからもう、誰かぼくをナマズ様の餌にしてください。張り裂けそうなんです。
『あ~~。起きたかよ~、ばかもの』
キリウの虚ろな意識を、うにょうにょした感じの言い表しがたい化け物が覗き込んでいる。頭がパーで脚が八十本あって、栄養豊富な脳みそに住み着いたミミズが、そいつの耳から穴の開いた頬から這い出して、うにょうにょ踊っている。
キリウは医者か庭師を呼んでほしかったけど、きっと言葉は通じないから諦めていた。こいつは脳みそに咲き乱れた花から滲み出すサイコアクティブ物質で狂ってるんだ。それにキリウは、身体の中で這い回ってる虫の触角がこすれるのが気持ち悪くて、喋れそうにない。
『字ィが読めないのかなぁ。書いてても読まないお馬鹿さんかなぁ~。通り抜け禁止って、看板にいっぱい書いてあったでしょ~』
身体に降り積もる花びらが、そいつの脳天のそれのような気がして、イヤになったキリウは、イヤになった。だから池に放り込んでほしかったんだ。それともそいつを放り込んでやればよかったんだ。
『お~い? 大丈夫か~い。あれぇ』
……今からでも。
『ていうかさぁ~』
伸ばしかけたキリウの震える手の向こうで……。
「ごめんね」
ぽつりと言ったミシマリの顔は、もう化け物ではなかった。キリウは仰向けに寝転がったまま、指一本も動かしてなどいなかった。当たり前だ。死体が動くわけがないのだ。
「あれっ!? きみ、首んとこのケガは!?」
けれど、急に驚いた声になったミシマリが手を伸ばしてきたので、跳ね起きたキリウは静電気をバチバチさせてそれを振り払った。
「えっ、だめ?? そっかぁ」
そう残念がって肩をすくめたミシマリは――頭に花も咲いていないし、なんでかブラウスの上から埃っぽいエプロンを着けて、箒を持っていた。おまけに眼鏡をかけていたので、改めて見てしまうと、キリウは一瞬彼女が誰だか判らなかった。
思わず両眼の所在を確認したキリウは、同時に自分のシャツが赤黒い液体でべっとり汚れていることに気づいた。そして自分が不躾にも座っているのが、ふんわり広がる誰かの長いスカートの裾の上だということにも。
ここでそんな格好を決めているのはミシマリの旦那だけだ。案の定、そこに睫毛の長い旦那の姿があった。キリウはどうやら、例のミシマリの家の不思議空間に居て、旦那の膝枕で寝ていたらしい。……トマトジュースまみれで?
当の旦那は、半透明のブロックに上体を預けて目を閉じている。キリウが見ると、ブロックの上には旦那の他にもメイデンを含む人形たちが山と積まれて眠っていた。その中にはコランダミーの姿もあった。しかしそれらは皆真っ白な顔をして、特有の生々しさも失って微動だにせず、人形みたいに転がっているばかりだった。
キリウは全身のむずがゆさに指をひねった。眼球の置き場が分からず、胸の奥が落ち着かなくてしょうがなかったのだ。どうして自分は休日を月で過ごすための最悪の方法を知っているのだろう、とキリウが疑っていると、ミシマリが勝手に喋った。
「あ~、なんかね。電波障害かもしんないから、人形止めてあんの。きみを引き取りに行った後、くらいからかなぁ。急に街中の窓ガラスが割れるわ、ポストがベッコベコになるわ、狛犬が尻尾降るわで……意味分かんないからさぁ~」
実際、この倉庫は今、窓という窓を外側からシャッターのようなものを下ろして封されていた。閉め殺される。綴じ殺される。ミシマリが言うように、床には割れたガラスの欠片が散らばりまくって祝祭感があった。
太陽が見えなくて、ぴよぴよ鳴いてる時計がうるさくて、見えなかった。でもたぶん、うるさいのはキリウの方なのだ。
それにしてもキリウは誰で、どこを正義で、何を頑張っていたんだろう。馬鹿は死んでも直らない。脳みそカスカスで、血で染まった襟ぐりを、摘んだ指先の割れた爪も青春だった。腕には張り裂けそうに大きなミミズ腫れがぐりぐりしていた。しかも脳と眼球が同期的にかゆいかゆい。
「きみさぁ~。ちっさいモノグロちゃんを追っかけて、看板の向こうに走ってっちゃったんだって? ダメだよ~。危ないよ~」
なんとなく事象が地平線くて、ミシマリのテンションが低いのが気持ち悪かったが、そんなことはどうでもいい。布の上からブロックに手を突いていて、ふと旦那の左膝から下が無いことに気づいたが、そんなこともどうでもいい。
キリウはごわごわしつつある服をひっぱって、因果応報した。
「あの、俺は、なにを?」
ミシマリはキリウを無視して答えた。
「ん~~、でも、厄介だね~。ゼロの向こうに行っちゃったモノグロちゃんを探すのは、ちょっと厳しいよね~」
――。― ― ――。
「ゼロ?」
訊き返していた。
ああ、思い出した。キリウは、逃げるトランを追いかけて公園から『外』に飛び出した後、背中からパラライザーで撃たれたんだった。
火の見櫓の上に居た奴らだ。撃つ前に、彼らがオーボエで警告する音をキリウは聴いていた。彼らはやっぱりまだあそこに居て、境界線を観察していたのだ。でもキリウは、死に物狂いでキリウの手から逃れようとするトランを捕まえるのに必死で、それに従わなかった。
逃げる? どうして? こんなに空が高いのに?
ふかづめひづめ、まぢめな血豆。能天気。ブラックホール。キリウは……。キリウは・誰で・どこに。
ボルルデョッユスの才能がめちゃくちゃあるらしいけど本当はピヮヨトープがやりたい人。ピヮヨトープの才能は全然無い。結局、自力では大したものが出来ないのを分かっているので、薬や乱数に頼ってしまう。
「ん……あれ? きみ、公園に?」
ミシマリは尋ねてくるようだけど、本当のところは、相変わらずキリウを無視し続けている。彼女は「いや、でも、まさか、でも、そんな」と独りでぶつぶつ繰り返し、やがて僅かに強張った顔になって――。
「あのさぁ~~? 念のため、確認させてほしいんだけどさぁ」
「向こうって?」人生は墓場まで持っていく秘密ができてからが本番!
「きみ、もしかして、あたしのID、わかる?」
ID=5―― ―― ――― ― ――。
―――― ――――この時、頭の中でカチッと音がして、キリウは血まじりの嘘をついた。
「わかりません」
なぜ嘘をついたのか、誰がその嘘をつかせたのか、この時のキリウには分からなかった。ただ――。
――。― ―― ――、
なんだこれ?
なんだこれ!? なんだこれ、
浅薄なる誠実で醜いあひるの修羅的分譲思想主義!?!?
全身がざわっとした。眼球が落ち着かないまま、キリウの鳥肌が破裂して、ミミズ腫れから血漿が滲み出した。
キリウは弾かれたように辺りを見回していた。旦那のスカートを汚したキリウの血が、首を引き裂くようなミミズ腫れが、浮かび上がって呪われていた。キリウは自分を変えるために、これからはカメラを止めて鏡文字を禿げ上がった。
仙人ですが救われない魂をジャムにして霞に塗って食べました。いわし雲のいわしって何だアホ、死ね死ね信じまえ。困ってる人を助ける優しさと、困ってる人を助けたいって優しさは違うんだ。
「そんならいいや。――あ、そうだ。きみさ、これ持っ―倒れ ―けど ― ―」
ミシマリィィが、エプロンのポッケから取り出したものをキリウに手渡す。でっかい箸置きみたいに扁平な、灰白色のすべすべしたそれを見た時、キリウの耳元で――。
『モノグロって自切する生き物なの?』
ミシマリか、キリウ自身か、それとも全く違う別の誰かの声がした。
それを聴いた時、キリウは全部思い出した。公園で見た白いオブジェのこと。急に逃げ出したトランを追いかけて、看板を押しのけて、がれきの上を走り続けたこと。
――遠くでコランダミーがキリウを呼ぶ声――境界線上でトランを捕まえたこと。半狂乱で暴れるトランの尖った腕が、キリウの首を掻っ捌いたこと。キリウの傷から飛び出したものが、トランを八つ裂きにして、ゼロの向こうに吹き飛ばしたこと。
――いまキリウの手の中にあるものが、最後まで掴んでいたトランのしっぽだということ。
気が付くと、キリウは自分の右眼を指で抉り出して、外の見えない窓ガラスに思いっきり叩きつけていた。