もどる TOP

16.あー! 靴の裏に誰かの人権がー!

 毎度お騒がせ、芸術家気取りの変態農学者――タクシー運転手が言った或田という男は、記事中でそう称されている。

「なお、試験場から盗まれたとされる一部の『鏡心』の行方は現在捜索中」

 路上生活者の布団の中から今朝のスポーツ新聞を見つけたキリウ少年は、地面に膝をつけたままそいつを読んでいた。どうやら、あの銀色のリンゴは『鏡心』という銘柄であることが判明した。そしてそれが、とある大学の農業試験場で創られ、先日公式発表されたばかりの新品種であるということも。

 真夜中の月明かりで読むスポーツ新聞は天井知らずにスピリチュアルだ。ついでに昨日のスイカ割り(フリースタイル)の試合結果欄をチェックして、キリウはなんとなくため息をついた。

 犬屋ダービーは引き分けに終わったようだ。

「何それ?」

「あるふたつのチームのスポンサーが両方ともペットショップで、そいつら同士の試合がそう呼ばれてるんだよ。これで意外と伝統的なダービーマッチだし、スタジアム行くと犬まんじゅうとか犬ビールとか売ってるし」

「キリウは何でも知ってるんだね」

 相槌を打ってくれているのはユコだった。彼女は微かなうめき声を上げるタクシー運転手を尻に敷いて、まだ少し目をぎらつかせたまま、どうとでもとれる顔をしていた。やや笑っているようではあった。

「俺も、スポーツ賭博で金返そうとしてた奴について行きでもしなかったら、全然知らなかった。なんも知らないね俺は。カマボコが何でできてるのかも知らない」

 キリウは、髪の間から落ちてきた細かなガラス片の残りを払いながら答えた。

 あの後、タクシーの窓ガラスをぶち破って逃げようとしたキリウが、車内から飛び出してきた運転手に催涙ガスをスプレーされて捕まっていたら、たまたま深夜徘徊していたユコが助けてくれたのだ。ユコは運転手の後頭部をテニスラケットで殴って、彼の顔面をタクシーの車体に三回叩きつけて引き倒すと、そいつが起き上がれなくなるまで靴のカカトで腹を蹴った。

 涙を拭いながらその光景を眺めて、ユコは人を蹴ったり殴ったりするのが本当に好きなんだな、とキリウは感慨深い気持ちになった。彼は、人を蹴ったり殴ったりしているユコが好きだった。単なる悪意しか感じないからだ。

「そいつは賭けに勝ったんだった。あの時は、なんだか俺まで嬉しかった、名試合だったし。感極まって一緒に喜んじゃった。でも換金所でそのまま取り立てたら、子供がそんなことするなと説教かましてきやがった」

 『絶対泣ける感動エピソード大全 第三集より抽出』――向こうに転がっている催涙スプレー缶のラベルを一瞥して、キリウはスポーツ新聞を路上生活者の布団の中に戻した。

 まだ目が痛くて、吐き気が残っていた。

「あと、あ、あ……あずきビーム!!」

 その反面、第六感と第七感の最大公約数あたりは調子が良かった。

「眠くなってきた」

 一方、逆立った神経が落ち着いてきたのか、ユコは完全に動かなくなった運転手の上であくびしていた。

 それにしても当初、あのスタジアムの犬焼きとかいう食べ物は、犬の肉を食わせるのかと愛護団体が乗り込んだら、犬が鉄板でよく分からない何かを焼いていて困ったという。

 とりあえず或田教授とかいうのに会いに行こう、とキリウは思った。かのスポーツ賭博野郎に最後、現金を握り締めた拳で思いっきり殴られた時に見た空の色が、ふと脳裏に弾けた。あれから二十年か。奴はまだ生きているんだろうか。

 でも実際には三十二年前だったし、殴られたのは天井がある場所だった。