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156.ゼロの向こう側

 人形だから転送しても平気なんじゃないのかと率直に尋ねたら、コランダミーは真っ赤な顔になって、「デリカシーがない」「失礼」「あたしそんな大ざっぱな作りじゃない」などと怒りだした。初めて彼女が怒ったのを見たキリウ少年は面食らってしまったが、それでも当初は半信半疑だったのだ。もっとも、今ではキリウも、彼女の鞄がどこかしらの異空間に通じていることを疑いはしなかったのだが。

 それが最初の転送の前の話だ。そこから十回ほど転送を繰り返した後、鞄の中で呪いのピアノを弾かせてもらいながら、キリウは彼女に訊いたのだ。『あっち』はどっちかと。

 すると彼女は少し固まって考え込んでいたが、やがて無言でまっすぐ上を向いて指さした。遥か頭上でゆらゆらと揺れる水面の光のその先を。

 不思議とキリウは、どんなに高く跳んでもそこには手が届かないような気がした。

 あるいはそれ自体が、アルメロニカの言う通り、眩しい井戸の底で見た悪い夢だったのかもしれな――

「キリウちゃん」

 今日は妙にトランの機嫌が良いようだった。きゅるきゅると関節が擦れて、楽しそうに舞い踊るトランの姿に、キリウは妙な既視感を覚えていた。

 とにかく、ここのところは新しいこと続きで、キリウはまた参っていたのだ。いや、キリウが参っていなかったことなどあるのだろうか。思い返せば幼生の頃より必要充分な安心の中で快活に過ごしていた記憶が殆ど無く、いつも失った神経細胞の隙間に悪夢を見ていた。それはシャーレの上で孵される以前に施されていたレーザー照射処理の痛みを思わせて、今なおキリウを灼いてい――

「キリウちゃん、ここ、電波が」

 だから、すぐ隣で、しかしキリウは、自分が何をしようとしていたのかをどうしても思い出せずにいた。

 キリウの手は、キリウの耳が知らないメロディーを奏でていた。呪いがそうさせるのか、いつか弾いた曲を指が覚えているだけなのか、キリウ自身には判らない。そこから放たれる全ての音は、壁の無い空間ではどこまでも散ってゆくばかりで、一つも誰の傍に居てはくれな――

 

「キリウちゃん、ここだめ!! キリウちゃん!!」

 

 まばたきしたキリウの隣にはコランダミーがいた。転送局の倉庫を抜け出して、はにかみながらキリウと一緒に歩いてきた彼女が、今は半狂乱でキリウの腕を引っ張っていた。

 賑やかな街道を行き交うたくさんの人影があった。ここは井戸の底じゃない。頭上では欠けた太陽が静かに静かに輝いている。キリウの周りをきゅるきゅると上機嫌にトランが飛び回り、煽るけど、どこかで見たことがあるか無いか判らない。

 虫たちの翅音が無い。どこにもない。

 道行く人々はのっぺらぼう。誰の記憶の中にもいない。

 思い出せない、覚えてられない。思い出せないことを思い出せない。覚えてられないことを覚えてられない。

 どこにも何にも引っかからない。見たもの、聴いたもの、触れるもの、全部が流れ落ちて消えていく。記録に残らない。保存されない。キャッシュが生成されない。今が今であり、未来が今になり、今が消え、過去にならない。

 ガラス玉の眼球が転げ落ちそうなほどに目を見開いたコランダミーが、キリウの身体を叩いて呼びかけてくる。コランダミーのそれが言葉の体を成していないのか、キリウがそれを聴き取れないだけなのか、判らない。

 けれどその直後、目の前を横切ったトランの姿を見た時、キリウは無意識のうちに自分の背中から羽を掴んで引っこ抜いていた。

 在りもしない羽のかけらを飛び散らかしながら、キリウはコランダミーに向かって叫んだ。何を叫んだかは、彼女にさえ判ればよかった。そしてそれを聴いた彼女は、ためらうことなく右手側の一方向を指し示していた。

 いつからか、この瞬間からか、その先には真っ白ながれきしか無かった。真っ白な地平と真っ青な空、それが世界の全てだった。キリウはコランダミーの首根っこを掴んで鞄に押し込み、後ろで自らのしっぽを追いかけてハシャいでいたトランも同じようにする。ほとんど同時にキリウの心の半分が砕け散り、空の彼方から、街の一画よりも大きな白い虫が現れた。

 はちゃめちゃな勢いで跳び上がったキリウの全身から、無数の白い翅が零れ落ちた。猛スピードで『あっち』に向かって進む虫の巨体が落とす影が辺りを覆い、あわやぶつかり、街を片っ端から捲ってゆく。その背中に乗ってキリウは、透明な街が、空っぽの生物たちが嵐の中に掻き消えてゆくのを感じていた。