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152.キリウ少年とジュン少年 その6

 彼らが薄汚い街の中と外の境目に深い深い穴を掘って、業者から押し付けられた大量の卒業アルバムを埋めていた時のことだった。

「そんならぼくは、世界の果てが見たいんだ」

 全てを忘れた頃に、何の前触れもなくジュン少年が言った。

 境目だ。境界だ。山折り谷だ。折り切り取り線だ。ただでさえこの街で最も地価が低いエリアの一画のあらゆるが、限りなくゼロになってゆくまでの窮屈で憂鬱で清々としたグラデーションだ。すぐそこに広がるはずのがれきの海は、この世の何よりも白いくせして、月の無い真夜中の底に沈んでしまいそうだった。

 二歩先も見えないほどに暗い夜だった。がれき用のスコップのずっと下で、ブヨブヨに腐敗した卒業アルバムが甘ったるい香りを放っている。水に溶け出した思い出の香りだ。そこに思い出すほどの価値があろうとも無かろうとも。

「あるの?」

 キリウ少年だ。世界の果てが。虫のように聞き返された言葉に、ジュンは少しぎょっとした声になって答えた。

「無いってことないだろ」

 実際には無かったのだが、この時のジュンにそのようなことは知る由も無い。

 闇の中にうっすらと浮かぶ地平線を見つめたジュンの赤い瞳には、少なからぬ憧憬の光が宿っていた。故郷を持たないはずの彼なのに、それはどこか望郷の念にも似ていた。あるいは、帰る場所が無い心を行きつく先にぶつけていたのかもしれなかった。

「自分の目で世界の果てが見たい」

「長靴」

 そう鳴いたキリウはやはり虫のようだった。けれど、ジュンがこんな時にこんな場所でこんなことを言い出した意味が全くパープリンなキリウでもないはずだった。

 今日もジュンは勝手にべらべら喋る。キリウはそれを虫のように聴いていたり、聴いていなかったりする。ややあることだった。無かった。あっても無くてもよかった。どうせ、いつかは全てが無かったことになるのだから。

「この生ゴミみたいな街と離れるのも寂しいけどさ。キリウがここ好きな理由、解らなくないよ。ぼくだってこないだ、福引きでサークルをクラッシュさせる権利を当てた時は」

 続きは出てこなかった。詰まった言葉とともに、ジュンがスコップを動かしていた手も止まる。あとはキリウがひとり埋め返すがれきの乾いた音だけが、コロコロと転がっていた。

 キリウは自己批判的な意味でアンビバレントな角度を込み込みで、この無法地帯のような街をとても気に入っていたけれど、ジュンはそこまででもなかった。ジュンの気持ちに限って言えば、実際には、居心地が良いと思ってしまう自分を認めるのが怖いがために好きになれないところが大きかった。

 この薄汚い街では、生きてるだけで湧き上がってくる罪悪感や苦しみといったものが希薄なのだ。ここに居着いている獣じみた人々のほとんどは、身長の高低に関わらず、その奇妙な甘さに憑りつかれているようにジュンの目には映った。この街の住民たちは他人のことを嫌いになっても平気だし、嫌われたって何とも思わない。嘘をつくし借りパクをする。作りかけのゲームを放置する。あくせく働かなくても生きていけるとそそのかす。羽化したばかりの柔らかいセミを叩き落す。まともなふりをしてても壊れてる。コウノトリだったら絶対に赤ん坊を食ってる。

 この街からは電波塔があまり見えなかった。

 ――ジュンは電波塔が苦手だった。大きくて怖いからだ。けれど、怖いながらに興味もあった。誰もまるでその存在に触れないのに、確かにそこに在るという塔に惹かれていたのだ。ある意味では、彼はその三角錐に自分の瞳の中のセカイを重ねていたのかもしれない。それを愛せた時、この世界で生きることを愛せようになるのだと、根拠もなく思い込んでいたのかもしれない。

 キリウは無言のままだった。キリウがこの街を本気で牛耳りたがっていることを、ジュンは知っていた。今にしてみれば、むしろそれから今まで十年間も一緒に生活していたのが奇跡だったのだ。

「おみやげ送るよ」

 取ってつけたようにジュンが言うと、キリウも手を止めた。そして頭をからっぽにして喜ぶ代わりに、キリウはジュンに訊き返してきた。

「もうここには来ない?」

 この時、真っ暗な闇の中で二人がいったいどんな顔をしていたのかは、お星様以外の誰も知らない。ほんとにお天道様は頼りにならない。

「わからない」

「嘘つけ」

「嘘ついてない」

 顔を上げて反論するジュンの方を見て、キリウはどこか馬鹿にした声色で笑ったようだった。

 世界の果てを見に行きたい奴がわざわざ引き返してくるだなんて、それを諦めた時以外にはありえないのだということを、なぜかこの時の二人はあんまり理解していなかった。彼らが二人で踊っていたことなど無いのだ。この世界には、ひとりで踊っている人がたくさんいるというだけなのだ。