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147.キリウ少年とジュン少年 その4

 この音楽スタジオの一室の端っこには、錆びきった長ネジが転がっていた。機材から抜け落ちたもののように見えたが、ジュン少年だけは、それがかつてここにいた誰かの頭のネジであることに気づいていた。

 今、そのネジの先端は、ジュンに覆い被さったギタリストの顎の下に突き刺さっている。絞め殺されかけながら無意識に伸ばした手がそれに触れた時、ジュンは、一昨日の星占いの結果が良かったことを思い出した。目の前の青年の赤ら顔から笑みが消え、首にかけられていた手が緩んだ一瞬、ジュンは握り締めたままのネジを力任せに振り抜いた。

 ごつごつした赤錆に捕らえられた弾力のある肉が、ぶつりと千切れるおぞましさ。破れ目から湧き出た温かいものが、手の甲を撫でる気持ち悪さ。そのどちらも、この時だけはアドレナリンが吹き飛ばしてくれた。それは現存するどんな口説き文句よりも優しくて。小指程度の裂け目ができたそいつの首から、勢いよく流れ出した赤黒い血が、ジュンの服と頬を汚した。

 ジュンは激しく呼吸をしながら、倒れこんできたそいつを乱暴に突き飛ばす。乗っかられていた脚が痺れをもって痛んでいた。青年は傷口を手で押さえてわあわあと声を上げていたが、どこか楽しそうに見えるのは酒のせいだろう。彼が勘違いしたヒョロヒョロのギタリストで、絶望からベロベロに酔っぱらっていなかったなら、ジュンはこの世からバイバイしていたかもしれない。

 そう……絶望から。

 そんなことはどうでもいい。軋む身体に渇を入れて立ち上がり、ジュンはアンプの影に転がっているキリウ少年を覗き込んだ。覗き込むなり、思わず顔をしかめた。ギタリストにゾンビと間違われてギタギタにされたキリウは、ジュンが想像していたより倍くらいは酷い状態だったからだ。ギターのボディで殴打された顔面の穴という穴から血が出てるし、脳天にトレモロアームがぶっ刺さってるし、床に倒されたときにエフェクターとかフライパンにひっかけた手足も傷だらけになっている。

「おい、キリウ! 起きろよっ、こんなとこで寝てたら、死ぬぞ! おい!」

 ジュンは自分の手が汚れることも気にせずに、キリウの頬をバシバシ叩いて呼びかけた。幸いにもキリウは意識を失っておらず、まるっきり叩き損になったが、しかしキリウは焦点の合わない目をして、モニャモニャとうわ言のようなことを呟くばかりだった。

 どうすればいい? ジュンは焦っていた。けれど、こういう時こそ落ち着いて考えなきゃダメだ。その場で何度か深呼吸する。そして素早く立ち上がると、後ろでのたうち回ったままでいたギタリストに向き直り、脇腹を思いっきり蹴飛ばした。

 さらに何度か蹴飛ばした。ジュンは嘔吐し始めたそいつをゴミを見るような目で見下ろして、「そのまま死ね」と吐き捨てた。そもそもキリウをゾンビと間違えたというのも嘘に決まってる。ジュンはそいつのシャツを脱がし、引きちぎってキリウの傷を手当した。自分の顔についた汚い血も拭った。

 それからジュンは、歩くのもおぼつかないキリウを引きずって、荒れ果てた部屋を後にした。持ってきたハーモニカを置いていきたくなくて、しばらくは一緒に抱えていたが、邪魔なのですぐに捨てた。電気が止まっていてエレベーターが動かなかったので、ギリギリな傾斜の非常階段をやっとこ降りていく。三階の踊り場に転がっている頭の割れたゾンビの死体を眺めながら、ジュンはぽつりとこぼした。

「あいつ、ヘタクソなのに練習しないし、病んでるぶってナメクジに薬のシロップかけて写真撮ったりするから、ぼくは大ッ嫌いだったよ」

 ギタリストのことだ。彼は野外イベントに向けて組んだプログレバンドのメンバーで、いつも『実はボーカリストより歌が上手いギタリスト』ポジションを狙っていた。

 一階に着いた時、非常階段の裏のすぐそこで何かの吠え声と、耳を塞ぎたくなるような男の悲鳴とが上がった。取っ組み合いをしているようだ。ジュンが立ち止まって息を潜めて聴いていると、やがて悲鳴の方は途切れ途切れになって、潰れたようになって、ざらざらしたふうになって、消えた。

 ――街は溢れかえったゾンビで地獄と化していた。芸能事務所が主導となって研究を推し進めていた、スーパーアイドル開発用のウイルスを持ったマウスがタコ部屋から逃げ出したのが顛末なのだが、この二人を含めて誰も知る由は無い。それよりもモノがモノなので、ダンスもバク転もこなす抜群の身体能力を獲得したゾンビが少なくないのが問題だった。

 実は今朝の早い頃から、すでに街の様子はおかしくなり始めていたのだ。けれどスタジオの店主が軽度のキチガイで、予約を当日キャンセルすると嫌がらせがすごいので、とりあえずバンドメンバーで一通り練習してから出てきてみたら、案の定こうなっていた。おかげで夕方のアニメを見に帰ろうとしたベースボーカルはゾンビの群れに八つ裂きにされたし、尺八ストはトイレで首を吊ってしまったし、ギタリストも持ち込んできた酒をあおってあの醜態だし。

 とにかく二人はこの街を抜け出さなければならない。すでにインフラが死に始めているし、もたもたしてると最終的に爆死するだろう。

 先程の男を貪っていたゾンビがローラーブレードで去っていったのを見届けると、ジュンはそっとドアを開けて、室内の様子を確認しつつ滑り込んだ。待合室にはグッピーの他に動くものの気配は無く、まったくの無人のようだった。

 幸いにも、この音楽スタジオは駅からあまり離れていない。アジトに積んでいた未読の本の山は惜しいが、とりあえず駅まで逃げれば、歩いて隣の駅まで行けるはずだ。ジュンは正面のドアを外から開かないように固定したあと、デザイン的にアウトなソファに膝で乗って、カーテン越しのエントランスの窓から外を伺う。

 切れた電線から火花が散っていた。タクシーが路肩に突っ込んで炎を上げていた。ゴミ箱の横でクリームまみれの犬が死体を食い漁っていた。そのストリートの真ん中で、フォーメーションを組んだゾンビの群れが、オウオウと唸りながら躍っていた。キリウの腕を掴んだままのジュンの指に、無意識のうちに力がこもる。

 と、ソファに身体を預けていたキリウが、ようやく口を開いた。

「ジュン、先行っててよ。俺、頭がぐらぐらして、走れないよ」

 耳にゴキブリでも入り込んだかのような兄の消極的な言葉に、ジュンは憤慨した。

「真面目にやれよ! 寝言が言えるくらい元気なら大丈夫だろ」

 非道い言い方をしているようだが、つまるところジュンはキリウを置いて逃げたくないのだ。それを察して再び鼻血を噴くキリウに、ジュンも形容しがたい笑顔を向ける。

「なんだろうな、キリウ。ぼくは別に、こんなクソみたいな世界で生きてたいなんて全然思ってないんだ。でも、こんなクソ以下の状況で死にたくもないって、いま思ってんだ」

 さて、気持ち悪いオタク談義はともかく、ジュンは現実的なアプローチを考えることにした。こんな湿気っぽいところで死なないためには、ゾンビどもを振り切るか、さもなくば戦うしかないのだ。目下のところは備え付けのゲバ棒を振り回して威嚇するか、通信教育で習った放火術で街ごと焼き尽くすか、ゾンビのふりをしてごまかすか……。

 すると突然、外から無数のうめき声が響いてきた。驚いたジュンが見ると、踊っていたゾンビたちが、声を揃えて歌っていた。

 歌なのだ。一斉に呻いているようにしか聴こえないが、確かに歌だったのだ。どうしてジュンはあれが歌だと思ったのだろう。それは考えることではなく感じることだったが、今のジュンには解らなかった。なのに、群れをなして踊って歌っているゾンビたちの一人一人から熱い想いが伝わってくるような気がして、ジュンは泣いた。自分の気が狂ってしまったのだと思って泣いた。さめざめと泣くジュンのとなりで、キリウも同じ光景を恍惚とした目で見つめ続けていた。

 しかし歌がCメロに突入し、ソロパートが始まったと同時に、二人のすぐ背後で床が軋んだ。

 正確には二番のBメロのあたりからずっと、カウンターの中から現れたそいつは、ゆっくりとにじり寄って来ていたのだ。けれど地獄の歌声に捕らわれていた少年たちには、今の今まで気づくことができなかった。彼らが目を覚まして振り返った時、そこに立っていた店主のゾンビはすでに、片手に握りしめた消防斧を振り上げていた。

 ――次の瞬間、ジュンは自分をかばったキリウの背中に凶器がぶち込まれたのを見ていた。

 ごっ、と刃先が何かに当たる鈍い音。耳元で弾けたキリウの短い叫び声。直後に、その刃が勢いよく吹っ飛び、天井に突き刺さったのも。キリウの背中から飛び出した真っ黒な棘の塊が、店主の全身を串刺しにしたことも。

 ジュンにはそれが翼のように思えた。

 キリウがソファに乗ったままのジュンの足元に滑り落ちるとともに、ジュンの目尻に溜まっていた涙も零れ落ちた。キリウの黒い翼に貫かれた店主の身体は、穴だらけになって中身が全部出ていた。次にジュンがまばたきした時、店主は床に放り出されて、キリウはただのキリウに戻っていた。

 ほどなくして、天井から落ちてきた消防斧が店主の頭をかち割った。急速に正気を取り戻したジュンは、慌ててキリウを引っ張り起こす。床を広がりだした店主の体液に浸かって、キリウがゾンビ化することを恐れてだ。キリウは今度こそ白目を剥いて完全に落ちていたが、よく見ると寝ているだけだった。その背中には斧で羽をもがれたかのような大きな傷跡が残っていたが、それもすでに黒く固まりきって、血が滲んですらいなかった。

 ジュンはわけがわからなかった。心臓がばくばくしていた。ジュンには自分が見たものが夢なのか現実なのか、どうしてもわからなかった。なんなら、今この状況すらも。アイドルを好きになる気持ちも。音楽をやる意味も。究極的には、自分がこの世界で生きていることすらも。

 でも、わからないからと言って立ち止まってても誰も助けてなどくれないのが世の常だ。だからと言ってそれを恨むような奴にはなりたくないと、キリウはいつも言っていた。

 ジュンは――慎重に店主の屍に近寄り、エプロンのポッケを漁る。さっき店主が床に崩れ落ちた時、軽い金属音がしたのを聞き逃すほど呆けてもいなかった。ポッケから出てきた機材搬入用のトラックのキーを握りしめて、ジュンは覚悟を決めた。カウンターのロックされた引き出しをピッキングでこじ開け、中に入っていた小銃と弾倉を取り出す。あまり慣れない銃の使い方を確認すると、スリングベルトの要領でギターストラップを結んで斜めがけにした。弾倉は自分のポッケに押し込んだ。

 白目を剥いたままのキリウを担いで裏口に向かうジュンを止めるものは、もはや何も無かった。車を運転するのも二十五年ぶりなのに。