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146.ここにいたはずの僕たちは

 隣の部屋から、軟禁されて作品を執筆させられてる文豪の嬉しい悲鳴が聴こえてくる。尻を鞭でしばかれながら、自分が書いた文章を大声で一行ずつ音読させられているようだ。

 そうこうしてるうちに、またトランがコランダミーの鞄の中に潜り込んでいた。

 その隣で、コランダミーが机に乗り切らないほどに並べたオカルトグッズを、ひとつひとつ手入れしていた。彼女はそれらを手に取っては、拭いたり干したり生贄を捧げたりといったコミュニケーションを行っていた。一通り終わると彼女は全て鞄に片付けて、また別の時代のアーティファクトを鞄から取り出して、ずらりと机に並べて、飽きるまで続けるのだ。あるいは、本来のやるべきだったはずのことを思い出すまで。

 キリウ少年はコランダミーが同じモノを手にしているところを、二目と見たことがなかった。彼女がよほど色んなモノを持ってるか、キリウが一つも覚えていないかのどちらかだろう。コランダミーのつぎはぎだらけのショルダーバッグは、彼女の体格には大きかったが、その上で明らかに見た目よりもたくさんのモノが入っていた。

「中身どうなってるの?」

 無言電話をかけるのに飽きたキリウが横から尋ねる――白い虫の死骸でいっぱいのゴミ箱に、蜂の巣になったテレホンカードを放り込んだ後で。作業中のコランダミーは振り向きもせず、ぞんざいに答える。

「見ていーよ」

 キリウは靴を脱いで一礼し、恐る恐る鞄のフタをめくって覗き込んだ。

 するとそこには、くるみ割り人形のようなものが「こんなものが何よ!」とヒステリックに叫びながら、ひたすら学校のプールにドラム缶を蹴り落としている情景があった。惚れ惚れする見事なフォームのキックだった。それがあんまり楽しそうなので、思わずキリウが手を伸ばしてみた途端、しかしその像は搔き消え、あとはただただ底の見えない黒い闇がどこまでも広がっているばかりだった。

 まるで現実そのものだ、とジェームスは思った。そのまま闇に腕を沈めたままでいたら、見えない指先をぱちぱちした何かに叩かれて、キリウはようやく手を引っ込めた。放っておいたらトランもこの闇の住民になってしまうかもしれない。

 キリウが顔を上げると、コランダミーが自分の眼球を取り出してハンカチで拭いていた。少なくともキリウにはそう見えた。まばたきして見直すと、コランダミーの手の中のものは、白い虫の抜け殻が詰まった小瓶になっていた。鞄の闇の底からぶわっと白い虫が飛び出し、キリウの顔の前をかすめていく。もう一度見ると、瓶の中身は小指のピクルスになっていた。

 ――誰も弾いてないのに鳴りだすピアノ。小学校じゃブイブイ言わせてたらしい。

 ――誰も消してないのに消えるペンライト。壊れてるだけではないのか。

 ――誰も閉めてないのに勝手に閉まる家のカギ。救われた人も泣かされた人もいるとかいないとか。

 そして誰も呼んでないのに勝手に来るキリウ。貸した金を返してほしいだけだ。

 収集癖が無いキリウには、コランダミーの生態がよくわからなかった。それはキリウから見た彼の弟、ジュン少年との関係性とよく似ていた。ジュンもひとところに留まれぬ旅人のくせに、やたらとカードやシールといった夢の欠片を集めたがっており、鞄の隙間に詰め込んでいた。

「いっぱい集めたね」

 言ったのはキリウだ。白い虫から出てきた粉を払いながらキリウが声をかけると、コランダミーは照れくさそうに笑った。

「あたしの思い出」

 にこにこしながら机に広げたオカルトグッズを見つめるコランダミーの姿は、不思議といつもの無機質さが薄れて、少し可愛らしくキリウには思えた。

「見てるとね、いっぱい思い出すの。いろんなことあったの。キリウちゃん、覚えてる?」

 そう言ってコランダミーは鞄の中をごそごそ探り、闇の底からまた別のモノを引っ張り出してきて、キリウの前に掲げた。

 彼女の白い指から垂れ下がったそれは、派手な十字架があしらわれたボロボロの首飾りだった。不思議と眺めているだけで血糖値が上がり、やる気がなくなる代物だったが、キリウにはこれといった覚えが無かった。そんなキリウの様子に、コランダミーがまた困った顔をして笑う。

「キリウちゃんと会った街でひろったんだよ」

 そこまで教えられても、やはりキリウにはまったくピンとこなかった。実際のところ、キリウは自分が誰の借金のカタにコランダミーを奪ってきたのかすらも、ほとんど忘れてしまっていたからだ。

「俺、いつか全部忘れちゃうんだろうな」

 コランダミーのことも。トランと遊ぶ方法も。ジュンがいたことも。自分の指の本数も。悪い夢も。ラー油からキリウを庇って死んだカッパの背中も。焦げ付かされてる金のことも、最高に面白かった修羅場十選も、歌詞が嫌いすぎて吐いた歌も。ヒヨコ連れまわしたことも、テレホンカードの使い方も、初めて見た海の色も……好きだった人のことも。

 川に落ちた氷砂糖が融けてなくなるように。

「じゃあ、あたしがキリウちゃんのことも覚えててあげるね」

 融けかけていたキリウは、コランダミーの言葉に固まった。彼女は鞄から引っ張り出したトランをよしよししながら、やっぱり照れくさそうに笑って言った。

「あたしがみんなのこと覚えててあげるね」

 コランダミーが山と積んだオカルトグッズをばたばたと鞄に戻し始めても、キリウは彼女を見つめたまま、しばらく動けずにいた。何も言えなくなってしまったキリウの心は、これまでに経験したことのない温かさで満ちていった。その感情がこの上ない喜びだと気づいた時、キリウはこの世に希望が実在することを確信した。

 こんな気持ちになれたなら、もう地獄に落ちても平気だとすらキリウは思った。今なら窓の外にびっしりと集って異臭を放つ白い虫たちのことも愛せる、そう思えた。