――仕事をする上で大切なのが『ホウレンソウブタ』です。これは、報告・連絡・相変異・舞台挨拶の頭文字を取って、そう呼ばれています。
「ジュン君、ジュン君、雪が降ってるよ」
つい先程まで泡を吹いていたとは思えないような(※374168ページ参照)はしゃぎっぷりで、キリウ少年が弟の名前を呼ぶ。義理堅い弟、ジュン少年は新社会人向け自己啓発本のページをめくりかけのまま、そちらを見た。
いつの間にか、窓の外では雪が降ってたのだ。雪なんて珍しい。何の前触れもなく空気が冷たくなって、凍り付いた白い雲の欠片が落ちてくる。この世の怪現象のひとつだ。
どうりでこんなに寒いのだ、と冷え切った自分の指を握りながらジュンはつぶやいた。
「ひっどいな」
色気の無い感想だが、切実だった。ジュンは雪があまり好きではなかったのだ。雪の重みで、がれきに白い咲く花たちが折れてしまうのが嫌だったのだ。
それだけではない。初めて雪に触れた戦場の日のことを思い出すから……。あの街はいつも寒くて、三日に一回は雪が降っていた。ジュンは半べそをかきながら、マニア人気の高い戦車に向かって、カメラのシャッターを切り続けていたっけ。
どちらにせよ、この世界に住む大多数の人々も、列車の運行を妨げる雪などは好きではないのだろうが。
「この街にいて半年だよな。ここ、よく雪降るのかな」
一方、寒さが分からないくらいネジが抜けてるキリウだけが、いつも通りの装いで楽しそうに空を見上げていた。キリウは列車が大雨で壊れた時にも大はしゃぎして、周囲の顰蹙を食らっていたような奴だった。
半年――そう、半年だ。週あたり幾らの貸し部屋でも、さすがに半年暮らすと、ちょっとばかり物が増えてきたように見える。拾ってきたゴミ以外では、ジュンの個人的な持ち物が多かったが、ジュン自身はそれをキリウのものだと勘違いしていたり、そんなだからキリウもそれらを自分のものだと思い込んでいたりした。
「いいよな。ジュン、もうここ住んじゃおうよ」
「無理」
ノータイムで色気の無い返事に引っ叩かれ、キリウが肩をすくめる。
とはいえ、これ自体は、この頃の二人がたびたび行っていたやりとりだったのだ。だんだん旅立ちが面倒になってくると、キリウはそういうことを言い出すのだった。
そのたびジュンの頭には、もしかするとキリウには町内会に入ってよろしくやりたい願望があるのではないか、という一抹の不安が過っていた。事実、ジュンはキリウがショーケースの中の住民票を見つめているところを、何度か目撃してしまっていた。
けれどこの日のジュンは、雪がストレスになっていたためか、普段ならば呑み込んでいた続きの言葉を口に出していた。
「というかさ、別にぼくと一緒じゃなくても、キリウひとりで住んだらいいんじゃないの?」
その発想が無かったキリウは驚いていた。
「えー! でも……あれ? そうなのかな。ジュンはそれがいいと思うのか?」
「うん、ずっと思ってた。だいたい、ぼくは隣人トラブルが靴を履いてるような奴だし、何を言われても定住する気は無いよ。ここだって……ほら、上のカップルがうるさくてブチ切れ寸前だし」
この時、上階からはタップダンスの足音が聴こえていた。
「帽子じゃなくて?」
「真面目に聞けよ。帽子を履けるわけないだろ」
ジュンは鼻で笑って本のページをめくった。実際、ジュンにはキリウが一人でいい感じに生活している風景の想像がつかなかったし、キリウ自身もみずからに対して同じ感想を抱いていた。
もっとも、実はほぼ同じことがジュンにも言えたのだが、生憎それを指摘してくれる人がどこにもいなかったことは、不幸だったのだろう。
「そんならここじゃなくて、もっといいところにする!」
大真面目にそう言うキリウをジュンは問い質したくなったが、面倒なのでやめた。
そんなジュンの目をじっと見て、キリウが別のことを質問してきた。
「でもさ。そうなったら俺は、もう二度とジュンと一緒には戦えないの?」
ジュンはニヤリと口角を上げて悪魔崇拝のハンドサインを作り、キリウに突き付けて答える。
「この世界のどこかでお互いが生きてるってこと、それ自体が希望だとぼくは思う。キリウはそう思わないのか?」
なんやかんや言ってるけど、ようするにキリウが訊いたとおりだということだ。それを察したのか、無言で首を傾げたキリウを見て、ジュンは軽く頭を抱えた。上階のタップダンスも更に激しさを増している。
「現金な奴だな……! じゃあ、もしこの先キリウがどこかに住み付くっていうなら、ぼくは旅先のあっちこっちから、キリウにおみやげを送るよ。キリウはそれを受け取ってむやみやたらに喜ぶ。これでどうだ?」
するとキリウがむやみやたらに喜び始めたので、ジュンは安心して塩ビパイプで天井をどつき回し始めた。
やがて気が済んだ後、ジュンは肩で息をしながら、押し入れで植物を栽培しているキリウに尋ねた。
「ところで、いったいキリウはぼくと一緒に何と戦うつもりだって?」
キリウは振り返って、親指を立てて答えた。
「博愛主義者」
――この二人が一時期ツーピースバンドを組んでいたのは、そのような経緯でもあったのだ。